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補助軍兵A氏作アイマス・トータルウォー支援SS「咆哮する軍旗」第三話

補助軍兵A氏から頂いた支援SS続編です!
今回はあの大人物が登場します!

自分の世界観の中で彼が登場するとは感激です。
では、どうぞ!

7 ヘラクレアの悪夢


「あの異邦人は陣形を見る限り、ただ野蛮なだけではないらしい。」
そう口にしながら布陣するローマ軍を見遣る馬上の平服男は、ギリシア人に見られがちな長く整えられた髭を生やしていた。戦場を射抜くその目は、確かな戦術眼の証であり、その彼の視線の先に整列する軍勢は、長槍を構えてマケドニアファランクスを組み上げる、ホプリタイだ。堂々たる筋肉質の体は、この人物が武人であることを如実に現していた。
彼の名はピュロスといい、イタリア半島の東岸、エペイロスの王である。ピュロスは大帝国を作り上げた名高いアレクサンドロスの母方の家系にある人物で、アレクサンドロスの後継者と自認していた。ディアドコイ戦争、つまりアレクサンドロスの後継者争いにも手を出した挙句、マケドニアから追い出され、この頃はエペイロスを拠点に傭兵と変わらない生活を送っていた。
その彼に、イタリア殖民都市の一つ、ターレスから連絡が入った。「ローマから圧迫を受けている。他に3万7千の傭兵を用意するから、助けてほしい。」と。ピュロスは戦争をすることに命を賭けているような人物である。以前のディアドコイ戦争でターレスから借金したこともあり、一も二もなく承知した。
ターレスからの情報では、アドリア海の入り口にある島にローマが哨戒艦隊を置いたので危険を感じる、となっていた。だが、ピュロスが独自に調べたところ、全くの逆であることがわかった。
ローマは最近になってやっと商船団を組んで航行できるようになったばかりで、まともな軍船を持っていないこと。その一部の商船が、嵐に見舞われて逃げてきたところをターレスの住民が略奪したこと。説明を求めてローマが使者を送ったものの、「ギリシア語がなっていない」と嘲った挙句に追い返したこと。
これらを知ってピュロスは頭を抱えたが、仕事は仕事だ。それに、借金のこともある。しかも、新興勢力として力をつけてきた未知の軍団である。腕が鳴らないわけがない。事実、田舎者の割には重装歩兵団が主力である。彼は近習の一人であるキアネスに語りかけた。キアネスはピュロスよりも年上で、白い物が混じる髭を生やし、鎧を纏って控えていた。
「キアネスよ、不思議な連中だな。まるで、未開の民と都市の民が掛け合わさったように見えるぞ。」
重装歩兵が主力であれば、中産階級の人々が力を有している、ということである。その辺りはギリシアと変わらないが、人員の間隔が粗い。それに、全体的に縦長の陣形を取っている。これは、ローマ人がガリア人と呼ぶ、ケルトの民の戦い方に近かった。蛮族との戦いなら、何度か経験している。ギリシア系のマケドニア相手の戦争も、体験している。だが、その両方の特質となると、全くない。どう戦うべきか。ピュロスにとっては悩みどころだったが、同時に楽しくもあった。
「私は勝つ。勝って、ローマの地にアレクサンドロスと私の像を建てよう。私が大王の後継者であることを知らしめるのだ。その後は……カルタゴ。それに、シリアも、ビテュニアも、ギリシアも、全て私の手中にする……!」

一方のローマも大騒ぎだった。大義名分が見つかったのはいい。実際、この騒ぎに乗じてクロトンをはじめとするブルッティウム周辺はローマ側につき、早速ブルトゥス領になっていた。だが、戦術家として有名なピュロスが出張ってくるとは思っていなかった。しかも、ターレスは3万7千もの傭兵を約束しているという。これだけの兵力と、ピュロスの戦術に合流されては、全く勝ち目はない。動員できる人員は、予備を残して可能な限り動員することにした。
総大将は、ローマ元老院から執政官のプブリウス・ヴァレリウス・ラエヴィヌス。他にも、直接領地を接するブルトゥス家の一族に、ユリウス家の総領であるフラウィウス・ユリウス、スキピオ家からもコルネリウス・スキピオが参戦している。その他各地の有力者にも招集命令が下っており、マニウス・オタキリウス・クラッススも支援散兵隊を率いていた。
当然、元老院からも多くの貴族たちが参加している。後の執政官であるマルクス・マクセンティウスは無論、ティベリウス・クラウディウス・ポンピリウス・ネロとドゥルースス・ポンピリウス兄弟も馬に乗って戦場を見つめていた。クイントゥスの弟ガイウスも、ティベリウス指揮下の将軍護衛騎兵として参加している。
スキピオ軍の歩兵団には、第3ハスタティ、つまりプロデウスの部隊もある。彼の部隊は最前衛、右翼側中央だ。右翼側は、全体的に守りが薄くなりがちであった。これは当たり前で、左手に盾を持っている以上、右手は武器で何とかするしかない。プロデウスをはじめとするスキピオ家は、つい10年前までサムニウム族との戦争していたため、精鋭部隊のように見なされていた。29歳になっていたプロデウスも、百人隊長として戦うことには慣れてきている。この馬に乗って戦うのが苦手という、名物百人隊長の噂もあっての抜擢だった。
「しかし、今回クイントゥス様は留守番か……。」
プロデウスのぼやきも無理はない。総力をかけて戦わねばならない相手だというのに、後継者たるクイントゥスは内政漬けだ。戦術の天才相手なので、コルネリウスも危険を感じたらしい。「プロデウスに頼りすぎている面もある。今回は書類を片しておけ。」と言われたときの落胆は大変なものだったが、今回ばかりは止むを得ない。自分にもしものことがあれば、とコルネリウスは考えたのだった。
「やあ、プロデウス。調子はどうだい?」
黒い馬に乗ってやって来たのはドゥルーススだった。26歳になっても幼い印象はなくならないが、多少は落ち着いているように見えた。2年前にローマに召還され、兄の見習いとして元老院議員としての修行をしている。故に、二人が顔を合わせるのは、2年振りであった。
「変わりないです。ドゥルースス……殿はいかがです?」
プロデウスが言いよどんだのを見て取ったドゥルーススは、にっと笑って応える。
「ああ、僕のことはドゥルーススでいいよ。クイントゥスにも、マニウスにも、そう言っておいたわけだし。……僕はこの通り。元気だよ。」
「……そうですか。しかし、勝手に戦列を離れていいのですか?」
おっと、とプロデウスの言葉に顔を引き締め、ドゥルーススは口を動かす。
「そうだね。ラエヴィヌス執政官からの伝言だよ。『ファランクスとの距離を詰め、ピラ、ピルム投擲後に崩れた戦列を叩け。』だってさ。それから兄者からは『死ぬなよ』、マニウスからは『こちらも出来る限りは支援する。主力はあくまで歩兵団なのだから、頼りにしている。』だってさ。」
様々な人々の期待を背にしているらしい。特にオタキリウスは今回も大変な立場だったろう。戦争から10年が経過し、ようやくサムニウムも落ち着いてくれたとはいえ、またも戦争に巻き込まれている。それも、敵対していたローマのため、に限りなく近い。ピュロスの通り道に当たる可能性は高いから、自衛策ではある。ただ、オタキリウスはサムニウムの人間に、このような説明をした。
「ギリシア人の統治の仕方は、基本的に隷属だ。攻め落とした土地の富を吸い上げることしか考えていない。ローマ人は形だけにしても共同統治だ。どちらが得かは言うまでもない。それに、吸い上げるだけ吸い上げられたら、再起のための力も奪われる。ピュロスに付けば、我らに未来はないぞ。」
ローマのやり方が、確実に実を結び始めている時期だ。それに、兵役人口となりはじめている成人男子は、ローマの人間と接触する機会も多かった。結果的に、サムニウムから不満は出なかった。むしろ、一致してピュロスに対抗することを、ローマ側に伝えるようにオタキリウスに頼んだほどだった。
「本当に、我々は多くの人々の協力で戦えるわけですね。」
「まだまだ見えないところで、僕たちを助けてくれている人たちは沢山いるよ。期待に応えなくちゃ。じゃ、僕は戻るよ。よろしくね。」
広く開いた隊列の間を縫うように、黒い馬に乗るパトリキの男は騎兵団の下に戻っていった。

このヘラクレア近郊の川に隣接する平原は、ブルトゥス領となっているイタリア半島南部にある。イタリア半島南東部からピュロスは西進していて布陣していた。ローマ本国は他にもアドリア海側から別働隊を出されないようにと、各地のルートを塞ぐように軍団を配置していたが、どれも本命の軍団にぶつけられれば消し飛ぶような兵力である。ここで、勝たねばならない。
ずらりとローマとエペイロスの兵士達が熱気を纏うように並んでいる。互いに歩兵団を前衛に出して騎兵隊を後方に配置するという、極めてオーソドックスな陣形である。元々、ローマレギオンとマケドニアファランクスという、戦術体系が違うもの同士の戦いだ。この場合は基本に戻って戦わざるを得ない、というのが本音だろう。
「いくらサムニウム戦線でホプリタイ傭兵相手に戦ったといっても、市街戦で騎兵の回り込みができたからだからな……。」
平原の回り込みは、簡単に見える。事実、障害物はろくにないのだから、方向転換などやりたい放題だ。だが、問題は相手の騎兵の質だ。騎兵の質が敵側の方に部があれば、一巻の終わりである。回り込みどころか、こちらが回り込まれる。しかも、この手の会戦は歩兵同士の戦いこそが決め手になる。今度こそ正真正銘の、正面からの戦いだ。
「プロデウス百人隊長。」
隊列から声をかける者がいる。扇形の羽飾りつきの兜を振り回すように、彼が担当する部隊に顔を向けた。
「どうした。」
「やばいっすよ、あんな長い槍じゃ、敵に届く前にぶっ刺されますって。」
やはり、と思いながらプロデウスは返事をする。
「あの手のは隊列さえ崩せば何とかなる。我々の祖先もガリア人にやられた。同じことを、彼らにしてやればいいだけだ。皆、抜かるなよ!」
おう、と声が返ってくる。よし、と気を引き締め、立てられた長槍の列を見つめた。その列をプロデウスと同じように、ティベリウス、ドゥルースス兄弟も見つめている。
「参ったね、騎兵が戦いにくいと思うんだけど。あれじゃ串刺しだ。」
「今回は歩兵達に任せるしかない。全く、忌々しい限りだ。」
平民を見下さんばかりの調子で口にするティベリウスを、彼の弟はニヤニヤしながら見ていた。
「……何だ。」
「別に。まあ、僕らには僕らの仕事がある。テッサリア騎兵が来た時に、どうやって迎撃するのか。それが問題だと思うけど。」
「テッサリア騎兵か。名ばかりであってもらいたいところだが……そうもいくまい。」
テッサリア騎兵はアレクサンドロスが率いていた騎兵であり、ペルシア軍を打ち破る「鎚」として動員されたことで有名だ。ピュロスは各地のディアドコイ達に兵力の融通をしてもらった結果、テッサリア騎兵を率いることに成功していた。他にも、後方に戦象まで控えているらしい。
「化け物付きの軍団かあ。まあ、ラエヴィヌス執政官がどうやって戦うのか、拝見させてもらいましょ。」
「そのために国力が低下する羽目になるのは、たまったものではないがな。」
ローマでは、敗北しても指揮官が責任を問われることはない。名誉を重んじるローマ人である。敗北という不名誉によって、既に罰せられていると考えられているからだ。また、この頃の将軍とは執政官であり、挽回する余地あり、とみれば兵士達は票を投ずるが、その資格なし、と判断されれば落選する。この時点で適不適を兵士によって選抜されているので、大した問題ではない。
また、最終的に勝てばいいのであって、一度負けた程度では諦めないのがローマである。ガリアのときも、サムニウムのときも、負けは体験している。ガリア人のときなど、ローマを略奪さえされた。これはそれほど昔の話ではなく、たかが100年前だ。100年前にはローマ劫略の憂き目に遭っているというのに、もうイタリア半島も統一しかけという状況だ。ローマは最終的には勝つ。それだけは、ティベリウスもドゥルーススも信じていた。
「歩兵団、攻撃開始せよ!」
ラエヴィヌスの命令が飛ぶ。この男はサムニウム戦線での戦績は悪くないが、どちらかと言えば演説で指揮権を勝ち取ったような人物である。とはいえ、補佐役としてティベリウスをはじめとする多くの幕僚はいた。ティベリウスは正面衝突を避けるようにラエヴィヌスに進言したが、ローマ軍団の屈強さに自信があったらしく、堂々とぶつけることにしたらしい。
「ピラ構え、放てええええ!」
プロデウスの百人隊からも、軽量の投擲槍が放たれる。戦場の端から端まで、軽めの凶器が宙を舞う。それを後方で見ていたキアネスがピュロスに向かって叫び、ピュロスはそれに間髪入れずに応えた。
「ローマの攻撃です!」
「脅しだッ!」
最初に投げてくるのが軽量槍であることは、ピュロスにとっては想定内だった。問題は次だ、と戦術家はファランクスを組む味方の兵士を見つめる。
「続けてピルム、放て!」
今度は本命の、身動きを封じる槍だ。マケドニアファランクスは槍が長すぎ、槍を両手で持つために左手で盾を持つことが出来なかった。そのため、彼らの盾は革のベルトで胸部にぶら下げてあった。これに命中すれば、ぶら下げた盾を放り出すか、でなければ動きが鈍くなるはずだった。だが。
「バカな、届いていないだと!?」
プロデウスが我が目を疑ったのも無理はない。ピルムの射程は5メートルから15メートルと短い。ピュロスのマケドニアファランクスに用いられる長槍、サリッサの長さは6メートルあった。仮に後ろに1メートルほどの余裕を持たせていたとしても、最低射程である5メートルしか投げられない者は、この槍の「射程範囲」から投げるしかない。そしてもう一つの問題があった。それは、サムニウム戦線の癖で、部隊一つ一つを縦長に配置してしまっていたことだ。前方投影面積を減らして射撃兵器を躱す陣形では、後方のピルムが届かない。結果的に、3割近くが手前に落下していた。
「まずいですよ隊長、ピルムが当たらないんじゃ……。」
そんなことはプロデウスにもわかっている。ならばせめて、とプロデウスは隊員に指示を出した。
「盾で攻撃を躱しつつ、奴らの長物を叩き折れ! そうすればファランクスなど組めなくなる!」
喊声が各所で上がる。プロデウスの隊のようにサリッサを折ろうとする部隊もあれば、長槍を躱しながら突進して隊列を崩そうとする隊もある。だが、エペイロスのホプリタイも負けてはいない。味方の影から長槍を突き出し、ローマ兵を串刺しにし、振り下ろして頭蓋を叩き割る。後方にいる者は、ローマ側から降って来る矢を払い落とし、射撃兵器の効力を無効にしていく。
「まずいぞ、このままでは負ける!」
慌ててオタキリウスは麾下のウェリティスと補助軍騎兵に攻撃指示を下した。
「ウェリティス、散開して任意にピラを投げよ! 補助軍騎兵、第一陣と第二陣の間隙を縫って移動、同時にピラ掃射! 全て投げ切っていい、スキピオ軍を見捨てるな!」
獣の皮を被った散兵と投擲槍を構える騎兵が動き出す。中央部のユリウス家頭領、フラウィウスも指示を出し始める。彼は銀製の市民冠を祭事に被る権利を持つ、市民から評判のある名うての武将だ。北方の国境防衛を担当し、幾度となく襲い来るガリア人を押し留めていることで有名だった。今度は相手がピュロスだが、今度も押し留めてくれる。そう意気込んでいた。
「ウェリティス、ピラ放て! 弓箭兵隊、火矢で攻撃せよ! 全ハスタティは防御体制のまま動くな! 長槍の穂先を折ることだけを考えよ!」
射程の長い部隊で攻撃し、何とか時間稼ぎをすることにしたらしい。だが、ピュロスはそれも想定範囲に入れていた。
「クレタ弓兵、ロードス投石兵、前進。攻撃目標、敵射撃部隊!」
火矢を放つ場合、油を浸した布を巻きつけた矢に着火する手間がある。発射間隔がどうしても伸びてしまうのだ。ピュロスはそこを狙っていた。クレタ弓兵は地中海一の弓術使いの集まりであり、ロードス投石兵はペルシア戦争の際にペルシア軍を打ち破った実績がある。これは、最強クラスの射撃部隊が相手ということだ。たかが農作業の合間に覚えた程度の弓術で対抗できるはずもない。ユリウス軍の弓箭兵が地に伏していく。
「むう……。」
時間が経つにつれ、ローマ側の兵士が少なくなり始めていた。プロデウスたちの奮戦もあって、前衛部隊のサリッサの大半を圧し折ることに成功していた。しかし、彼らの努力をあざ笑うように、前衛ホプリタイがファランクスを崩して撤退する。その後ろから、未だ銀色に輝く穂先を持つホプリタイが姿を現し、マケドニアファランクスを形成する。
「……!」
このサリッサ破壊のために、大勢の兵士が死んでいた。だというのに、まだ続けるというのだろうか。さしものプロデウスも絶望しかけた。その彼に、ドゥルーススが向かってくる。
「第二陣投入するから、下がって整列して息を整えておけって!」
この状況を打開すべし、とは誰もが思うところだった。後ろに控えているのはローマ本軍のプリンキペスだ。だが、今までと同じ方法では勝ち目がない。ラエヴィヌスもそれは感じ取っていた。後詰のプリンキペスには縦長の編成から横長の編成に変えるように指示を与え、同時にピラをウェリティスたちに渡して最初からピルムを投げるように命令を下していた。
「……了解!」
プロデウスは部隊に後退命令を下す。後退といっても、あくまで戦力の交替だ。壊走状態にならないように注意する必要がある。
「ローマ本軍のプリンキペスと交替するぞ! 飛び道具にやられないように注意して、走れ!」
その状況を見て取ったオタキリウスとコルネリウスが、自軍の飛び道具部隊に指示を飛ばした。
「ウェリティス、ピラ投げろ! 犠牲をこれ以上増やすな!」
「弓箭兵隊、敵の飛び道具部隊を麻痺させるのだ! 撃て!」
その動きはピュロスにも確認されていた。
「ペルタスタイ、重ペルタスタイ、投擲開始せよ。今のうちに敵兵を削れ!」
ファランクスの影に隠れていた散兵隊が姿を現した。後ろに向けて駆けていくハスタティたちに、容赦なく投擲槍が降り注ぐ。
「ぐはっ!」
プロデウスのすぐ横で戦っていたハスタティの一人が、投擲槍に貫かれた。そこここで同じ光景が見られる。成熟しかけた百人隊長は歯軋りしながら叫ぶ。
「ここでやられたら、先にメルクリウスに連れて行かれた戦友に申し訳が立たんぞ! 走れ!」

「これはちょっとまずいんじゃないかな?」
プロデウスの隊から戻ってきたドゥルーススは、隣にいるティベリウスに向かって口を開く。38歳のクラウディウス家の養子である男も、それは理解していた。
「交替の隙を狙われたな。連中はうまくすり抜けられたが、こちらの不備、ということか。たまらんな。」
眉を顰めたティベリウスは、幕僚の1人としてラエヴィヌスに強い口調で進言する。
「我らも出ましょう。右翼側から騎兵を集中投入して、側面を突くのです。」
だが、ラエヴィヌスはこれに難色を示す。そんなことをすれば相手も騎兵を出すに違いないからだ。
「しかし、敵はテッサリア騎兵だぞ。それに、まだ象とかいう化け物も控えているという話ではないか。」
それはわかっている。だからといって、ティベリウスも引き下がるわけにはいかない。
「我らはパトリキです。パトリキは平時に民衆を導き、戦時には先頭を切って戦うべきです。我らこそ、自らの身を削る必要がある。それが責任ある立場の人間のけじめでありましょう。」
「む……。」
「ここには多くの頼りになる者が大勢います。テッサリア騎兵ごとき、我らの敵ではありません。我らが奮戦すれば、多くの者たちがそれに続くのは間違いないかと。」
それでも渋るラエヴィヌスに、ティベリウスは滅多に出さない荒げた声を放った。
「ここで我らが逃げれば! それだけ大勢のローマ人が死ぬこととなる! ローマ連合に参加している諸都市も見限りましょう! 我らを信じてきてくれた者への期待に応えるためにも、行かねばなりません!」
さすがにラエヴィヌスもティベリウスの気迫に圧された。しかし、まだ沈黙するラエヴィヌスに、ティベリウスはトーンを落として言葉を紡ぐ。
「オタキリウス殿にも来てもらいましょう。彼らはイタリア半島最強とも言える騎兵を有しております。信頼できる男です。私が保証します。」
ここに来て、ラエヴィヌスも決心した。確かに、引き下がってはローマ人の名折れだ。
「ローマ騎兵団、右翼側に集結せよ! オタキリウスが合流次第、攻撃を開始する!」
オタキリウスへの指示も、ドゥルースス自らが伝令に回る。オタキリウスとは同い年で、仲良くはなりやすい。しかし、彼にとってドゥルーススは父親の仇のはずだ。それをわかっていて自分と付き合うオタキリウスに、ドゥルーススは謝罪したことがある。だが、オタキリウスは「敗者とはそういうものだ。ドゥルースス殿は自らにできることをしただけでしかない。私も同じだ。」と応えていた。ドゥルーススはそのときから、彼をマニウスと呼び、オタキリウスにはドゥルーススと呼ぶように頼んでいた。
「あの強さ、僕も持てたらいいのに……。」
呟きながら馬を走らせ、散兵隊を指揮しているオタキリウスの下に向かった。

「マニウス、騎兵団を率いて右翼に集結して! 騎兵で歩兵隊を支援するんだってさ。」
散兵隊の指揮を執っていたオタキリウスは眉を跳ね上げた。歩兵での削りあいに業を煮やしたらしいな、と思いながら応える。
「了解した。ウェリティスたちの指揮をコルネリウス殿に委託することを伝えてくれるか。」
「任せて!」
オタキリウスは馬を走らせながら、歩兵団の様子を窺ってみた。プリンキペスへの移行と隊列を横長に編成しなおしたことによって、ピルムの8割が到達していたらしい。また、ハスタティたちがしていたように、サリッサの破壊に主眼を置いているようだった。今のところ歩兵戦は互角に持ち直している。後はハスタティたちが疲労から回復するのを待つしかない。
「これは本気で、騎兵の出番か。だが、馬の育成も安くはない。損耗させるわけにも……。」
オタキリウスの頭には、いかにサムニウムの者を守るか、そして、いかに自分の友人といえる人々を守るか、この二つしかなかった。彼は、友人と扱ってくれたドゥルーススのために戦おう、そう思っていた。

「コルネリウスさん、マニウスからの連絡です。『ウェリティスの指揮権を委託する。』とのことです。マニウスは補助軍騎兵を率いて右翼に向かってます。僕も騎兵団として戦うんで、よろしくお願いします!」
早口でまくし立てられたコルネリウスは、軽く頷き、言葉を返す。
「了解した。オタキリウス殿にはこう伝えてくれ。『預かったサムニウムの者を、粗末には扱わん。』とな。」
「了解です!」
ほとんど馬の脚を休めることなく、ドゥルーススは風のようにローマ軍右翼に向かう。通り道に当たるプロデウスの隊の前で、馬の脚を緩め、この百人隊長に声をかけた。
「この状況を打開するために、騎兵団を投入するから、もうちょっと待ってて! 僕も戦ってくる!」
「了解です! 頼みます!」
緩めた歩調を再び速め、馬を駆って去っていく。プロデウスは隊員に声をかけた。
「聞いたか! ついに騎兵が動くぞ! 再度我らも投入されよう! もうファランクスの長槍も残り少ない。あれがなくなれば白兵戦など容易いものだ。だが、抜かるな! 最後まで戦い抜いてこそだということを忘れるな!」
「おう!」
しかし、またもピュロスの軍勢はプロデウスの期待を裏切る。長槍を失ったはずの第一陣が、第二陣に代わって通常の長さの鎗を手にして前進した。サリッサは石突側にも穂先を有しており、折れても反対向きにすれば通常戦力になって戦えるのだ。しかも、このサリッサは長さを補うために金属パイプで繋いでおり、中途半端に折れた長槍をこのパイプという繋ぎ目で外せば、鎗の長さはほぼ同列になる。集団戦において武器のリーチが一致していることは重要であり、しかも、予備の剣もある。その上、プロデウス指揮下のハスタティ同様、十分に息は整えられている。胸を守っていた盾は左手に移り、バランサーとして使われていた銀色の穂先は輝いている。
「コルネリウス様からの伝令です! スキピオ軍ハスタティはプリンキペスの支援として、突入せよ、と!」
右から連絡が来る。プロデウスは絶望に呑まれかける心を抑え、決然と命令を発した。
「総員、突撃!」
楕円形の盾を構え、駆け足でホプリタイ相手に挑む。だが、愛用の長剣はサリッサの破壊のため刃こぼれが生じていた。それはプロデウスだけでなく、隊員全員に及んでいた。
「いつまで戦えるか……。くっ!」

同じ頃、クイントゥスは唸りながら積み上げられた書類を片していた。次から次へと持ち込まれ、インクは見る間に減り、ペン先も徐々に角度が変化しているように感じられた。
「う……次は……。」
いくら後継者の責務とはいえ、疲れてくる。それに、戦争だというのに自分はカプアに押し込められた状態だ。戦上手なことは、誰もが知っていることだ。それに、自分が前線に立つことで、自分が編成したハスタティたちも奮い立つはずだ。そんな思いが浮かんでは消える。
「クイントゥス様、これも。」
次から次へとパピルスの束が押し寄せる。ここのところ髪の毛が薄くなってきたのを感じていたクイントゥスだったが、もう諦めることにしていた。どうやっても薄くなるのは止められそうにない。頭を掻き毟る代わりに、こめかみを軽く指先で掻きながら、パピルスにインクの筋を走らせる。
その時だった。ペン先が折れ、インクが滲んだ。折れたペン先が頬をかすめ、クイントゥスの頬に血が滲んだようにインクの筋が走り、垂れていく。
「……大丈夫、のはずだ。あのプロデウスが、死ぬわけが……。」
口ではそう言いながらも、スキピオ家の後継者の中で高まる不安を抑えることはできなかった。

「象部隊、前進! ローマ騎兵に攻撃した後、後退せよ。テッサリア騎兵はその後間髪いれずにローマ右翼を攻撃するぞ!」
さすがのピュロスも業を煮やしたらしい。開戦からもう半日近くかかっている。彼は軍装に着替え、愛馬に乗ると、「決戦兵器」たる戦象を投入した。インド経由で輸入された、戦闘用に訓練された象はその牙を研がれ、鋭く輝いていた。象相手に戦うなど、ローマ軍は初めてのことで、その巨体で騎兵用の馬が怯えきってしまった。
「うっ、うわああああ、落ち着け! 今暴れたら……ああああああああ!」
右翼からホプリタイに攻撃を仕掛けていたローマ騎兵団の馬が暴れだし、騎手を振り落として逃げ始める。振り落とされれば騎兵など、歩兵にも劣る。ある者は鎗のような牙に貫かれ、ある者はその太い脚で踏み潰された。巨体の化け物の闖入で、騎兵団が結集していた右翼は血みどろの修羅場と化す。
「続けてテッサリア騎兵接近!」
もう勝ち目はない。歩兵戦でも有利とはいえない状態に陥っている。この状況を打開しかけた騎兵部隊までも士気を失った以上、踏みとどまるのは得策ではない。
「総員撤退! 宿営地まで逃げろ!」
ラエヴィヌスの判断は正しい。しかし、このままでは歩兵団がテッサリア騎兵の餌食になりかねない。
「執政官。私が殿を務めましょう。執政官は早くローマまで戻り、元老院の招集を可能な限り早めてください。マクセンティウス殿、貴公は執政官の護衛を。」
決然とした態度でティベリウスが言うのを聞き、ラエヴィヌスはやっとのことで口を開いた。
「すまん、歩兵たちを頼む!」
ラエヴィヌスは麾下の騎兵たちをまとめ、マクセンティウスに守られるように北西目指して馬を急がせた。ティベリウスはドゥルーススとオタキリウスに目を向け言葉を放った。
「ドゥルースス、私は貧乏籤を自ら選んだが、お前は好きにしろ。オタキリウス殿は各歩兵指揮官に撤退命令を伝え、貴公も撤退されよ。サムニウムの民を守るのが仕事だろう?」
オタキリウスは軽く悩んだらしいが、すぐに答えは出た。
「わかりました。お気遣い感謝します!」
伝令に向かったオタキリウスとは違い、ドゥルーススはあくまで笑顔でその場にいた。
「その態度ということは、殿を務める覚悟がある、そういうことか?」
「僕と兄者は表裏一体。戦わないわけには、いかないでしょ。」
にっと笑う弟に、少しばかり勇気付けられたティベリウスは、象が後退したために落ち着いてきた馬を駆り、テッサリア騎兵相手に挑む。騎兵を削らねば、追撃を受ける。それだけは避けたかった。幸い、突撃直後のため大して疲労していない。戦える。
「ドゥルースス、死ぬなよ。」

オタキリウスからの命令をコルネリウス経由で伝えられたプロデウスは、歯噛みしながら部隊全体に撤退命令を下した。プロデウスからも、象の巨体は見えていた。巨体を制御するのが難しいのか、さっさとピュロスは撤退させてしまっていたが、次に来るのはテッサリア騎兵だ。危険すぎる。
「宿営地まで戻れ! 次に勝つために、命を無駄にするな!」
プロデウスも部下をまとめ、その場から離れる。離れきれずに、ホプリタイに追いすがられて背中を刺される味方を何人か目にした。目を瞑りたくなるような思いを堪え、駆けた。撤退命令を伝えるオタキリウスも同じ気持ちで馬を駆り、次の伝達相手がいるであろう場所に向かっていく。
撤退命令は、ユリウス家の軍勢にも届いた。総領フラウィウスは疲れたように言葉を返した。
「わかった。ご苦労だったな、オタキリウス殿。貴公も早く逃げられよ。我らは一撃を加えてから逃げる。伝達を急がれるといい。」
とはいえ、ローマ軍の背後は川だ。どの程度逃げられるか、と思いながらオタキリウスは左翼のブルトゥス家陣地を目指した。

その頃、プロデウスは死闘を演じる羽目になっていた。ピュロスのテッサリア騎兵は左翼側、つまりローマにとっての右翼側から攻撃している。スキピオ家の軍勢は右翼担当なので、真っ先に騎兵の攻撃に晒されるのは、必定だった。次から次へと味方が討ち取られていく。
テッサリア騎兵は恐ろしいことに、馬上で4メートルはあるサリッサを用いていた。攻撃後はバランスを取るためにサリッサを手放して剣による白兵戦に移行するが、これを整列されて突撃でもされれば、高機動のファランクスが突進してくるのと変わりない。クイントゥスが手塩にかけて編成したハスタティたちが、見るも無残に撃砕されていく。
「このままでは……!」
プロデウスはその場に踏みとどまり、テッサリア騎兵と向かい合った。サリッサの穂先を躱し、滑るように馬脚を薙ぎ払い、落馬に追い込む。彼は手近にいたハスタティに怒鳴るように声をかけた。
「デキムス! お前は全員を纏めて行け!」
しかし、デキムスと呼ばれた兵士は首を横に振る。
「できません!」
「貴族の腰紐が百人隊長として、率先して戦うだけだ! 早く!」
「俺たちの隊長は隊長だけなんだぞ、見捨てられない!」
足止めのために踏みとどまっているというのに、このままでは全員が餌食になる。そんなことを考えていると、一際輝ける軍装を纏った男が疾風の如く駆けてくる。
「……ピュロス!」
片刃の長剣を握り締め、攻撃に備えて楕円形の盾を構える。自分も、とばかりに、デキムスも同じように盾を構え、剣を手にしていた。
「プロデウス隊長……!」
ピュロスがデキムスの言葉に、ぴくりと反応して止まったようだった。
「プロデウス……ギリシア系か? ギリシアの者が、何故ローマにいる?」
これはプロデウスにとって、ショックであると同時に凄まじいまでの侮辱だった。彼はローマ人としての誇りを胸に抱いている。ギリシア系だからと、ギリシア人に指を指されることほど、怒りが沸き立つものはない。
「ピュロス、あんたは今、俺の誇りを侮辱した! 許すわけにはいかない!」
しかし、明らかに追い詰められていたのはプロデウスたちの方だった。次から次へとテッサリア騎兵が背後に回り、取り囲まれていた。隊員も、ほとんど殺された。ここにいるのは2人だけだ。逃げ場はない。せめて、ピュロスに一撃をくれてやろう。そう思った瞬間、左から衝撃が来た。テッサリア騎兵ではなく、ドゥルーススの騎兵隊だった。
「騎兵隊到着! プロデウス、元気?」
ティベリウスとドゥルーススは、味方に追撃をかけているテッサリア騎兵を優先して攻撃し、蹴散らし続けていた。護衛騎兵団も何人かはやられたが、2人の奮戦振りを見ればやる気は沸々と沸き立つものだ。それは冷静なはずのクイントゥスの弟、ガイウスも同じだったらしい。
「やれやれ、私はこういうのは苦手なんだが……やるしかないらしいね。」
サリッサの攻撃を躱して懐に飛び込み、鎗の一撃を叩き込む。兄クイントゥスにも劣らぬ戦いぶりだ。ティベリウスはそれに満足しながら、テッサリア騎兵に鎗を振るい、血反吐を吐かせて落馬に追い込んだ。
「ここは僕たちに任せてプロデウスは逃げて! 早く!」
ドゥルーススの言葉に励まされ、プロデウスとデキムスの2人は、どうにか馬脚の林を抜け出し、逃げ出した。だが、ローマ騎兵はテッサリア騎兵に劣る。何度もプロデウスは振り返った。振り返るたびに、ローマ騎兵の数が減っている。涙が流れた。嗚咽が喉から溢れ出す。これがプロデウスにとって、初めての敗戦だ。だが、今の彼は無力だった。
残された形のティベリウスたちも、さすがに疲労が蓄積してきたらしい。そろそろ退かねば、自分の身が危うい。止むを得ない、と全員に後退命令を下す。
「よくもたせてくれた。全員後退せよ。」
ローマ将軍護衛騎兵団が転進し、後退を始めた。テッサリア騎兵団が、それを追う。水際に到着するまでに、どうにか距離を開けなければならない。途中でプロデウスとデキムスに追いついてしまったので、2人に盾を捨てさせてから護衛騎兵の馬に相乗りさせた。
「逃がさないと……。」
しかし、ローマ騎兵はテッサリア騎兵に乗馬技術そのもので負けていた。今向かってきているのは4騎ほどだ。後続とは随分と離れていた。この騎兵さえ仕留めれば、助かる確率は確実に向上する。危険だが、足止めをやってみる価値はあった。ドゥルーススは馬を止め、鎗を構えた。
「こんの!」
彼は構えた鎗を突き出さずに薙ぎ払った。サリッサが弾かれ、テッサリア騎兵の体が泳ぐ。続けて接近する別の騎兵に向かって薙ぎ払いの体勢を見せた。だが、この騎兵は前の騎兵の轍を踏まなかった。こちらも半分薙ぎ払いの体勢でサリッサを構え、ドゥルーススを殴打しにかかる。彼は体を捻って避けようとしたが、頬をサリッサの柄で殴られた。
「…………!」
ドゥルーススの目が見開かれる様子は、形容しがたいほど恐ろしいものだった。それをあえて表現すれば、瞼が大きく開いて怒りそのものを目に宿し、口から息の代わりに狂気が漏れていた、とするしかない。身に纏っていた装備も、先ほどまでは玩具めいて見えていたのが、急に本物以上の凶器に変化したように感じられる。
「よくも……俺を怒らせたな! 貴様ら纏めてオルクスの下に送ってやる!」
普段の幼さがどこかへ吹き飛ぶような、ドスの利いた声だった。馬を反転させて馬腹を締め、転進しようとするサリッサを手にしたテッサリア騎兵を両手で持った鎗で跳ね上げた。放物線を描くそれは、もう人間が放り出されたとは思えない。ただの革袋にしか見えなかった。
「だああああああ!」
地面に叩きつけられたところに、容赦なく穂先を叩き込んだ。それを見たらしい別の騎兵が左からサリッサを構えて突進する。彼は体を捻って躱し、長槍の柄を無造作に左手で掴んだ。これでバランスを崩して落馬したテッサリア騎兵に、容赦なく馬を前進させて蹄鉄を叩きつけ、脳天を粉砕する。
最初に攻撃をいなされた騎兵もドゥルーススに挑む。今度は長剣を手に馬を走らせて、距離を詰めようとしていた。しかし。
「フン!」
ドゥルーススは自分の鎗を投げつけ、到達する前に殺害した。最後の一騎は荒れ狂う男の背後から襲おうとする。それでもドゥルーススには気付かれていた。抜き打ちの一撃を、見えないはずのサリッサに叩き込んだ。穂先が折れ飛び、宙を舞う。慌ててテッサリア騎兵が長剣を手にしたときには、もう振り返っていた。狂気に満ちた瞳が見えた瞬間には、灼熱の激痛が彼を襲っていた。右腕が、消えている。消えた先から、血が溢れ出した。それを見るドゥルーススの口からも高笑いが流血の如く溢れ出した。
「あはははははは……あはははははははははは!」
ドゥルーススからはもう、理性を感じない。この場にいるのは狂気の塊そのものだ。その様子に気付いたティベリウスが、急ぎドゥルーススの下に戻って肩を揺する。
「ドゥルースス、ドゥルースス。」
がくがくと体が揺さぶられると同時に、狂気が体から憑き物が落ちるように抜けていく。ドゥルーススの目に、普段のあどけなさが戻った。
「…………あ、兄者……。僕は……。」
悲しそうに伏せる目は、正しく普段のドゥルーススだった。兄のティベリウスは馬を駆け足にしながら、気遣うように言葉をかける。
「気持ちはわかる。だが、抑えろ。可能な限りだ。冷静になれ。」
「うん……。でも、体が熱くなって、頭が沸騰したみたいになって……駄目だった。止められないよ、これ……!」
彼は子供のように目から涙を零していた。その様子を見ていたプロデウスは複雑な表情で考える。何かのきっかけで、ああなるのだろう。だが、そのきっかけが何なのか。後で彼の兄辺りに聞いてみる必要がある。
「俺も、一応は友人ということになっているのだからな……。」
今は逃げることが先決だ。助かった命を無駄にはできない、そう思いながら百人隊長である男は、宿営地の柵を眺めていた。


8 ひずみ


「うあ……あ……。」
「体が……感覚が……が……。」
負傷兵の呻きが、まるで演劇で鳴り響く楽曲の様相を呈している宿営地は、戦場と変わらぬ凄惨さに満ちていた。助かりそうな者は治療の薬に痛みを感じ、助からなさそうな者は、仲間や上官の「慈悲」を受けて息絶えていく。その様子に目を背けたくなるが、これが現実なのだと扇形の羽飾りの付いた兜を被る男は、ドゥルーススの護衛騎兵の馬上で揺られながら思う。
エペイロス軍に打撃を与えることは出来たものの、こちらの被害も甚大だった。中でもスキピオ軍の被害が最も大きく、クイントゥス編成の部隊の半数が戦死、もしくは再起不能状態だった。右翼自体脆い上、そこに象と騎兵を叩き込まれればこうなる。
全軍の被害状況は、プリンキペスの3割、ウェリティスの4割、ハスタティの4割、弓箭兵の5割が戦死、騎兵も4割が削られているという有り様だ。被害の大きいスキピオ軍でも、一番被害が大きかったのはプロデウスが率いていたスキピオ軍第3ハスタティだった。生き残ったのはプロデウスとデキムスという名の隊員の2人だけで、他の面子は全員戦死したか再起不能だ。テッサリア騎兵の追撃を受け、執拗に追いかけられた部隊である。隊員がデキムスだけでも残ったのが奇跡だ。
元々スキピオ軍には3つのハスタティがあり、その内の元々あった第3ハスタティを解散させている。その元構成員20人ずつを新規に編成したハスタティに組み込んだのが、クイントゥスの手になるハスタティ部隊である。これで、少なく見積もっても戦い慣れした兵士の4分の1が消し飛んだことになる。それに、プロデウスはクイントゥスのクリエンテス80人の投票によって百人隊長として昇格した身だ。こうなれば、格下げも止むを得ない。そんなことを考えながら、馬から下りた矢先だった。
「プロデウス、お前にはプリムス・ピルスになってもらうぞ。」
帰ってきたばかりだというのに、待ちかねていた、といわんばかりのコルネリウスから告げられた。
「は、はあ?」
何が起きたのかわからない。頭が混乱して、何が言いたいのかわからなくなった。
「今回の戦いで、我がスキピオ軍の百人隊長は、お前を除き全員戦死、そうでなければ再起不能状態だ。今歩兵隊を纏められる人材は、お前しかいない。」
未だ30にも達していないというのに、とプロデウスは思わざるを得なかった。ローマの成人式は16歳で行われることが多いが、一人前と見なされるのは30歳からだ。それでもベテランからはヒヨッコなどといわれてもおかしくないというのに、昇進が早すぎる。
主席百人隊長、プリムス・ピルスが意味するのは「第一の槍」であり、名実共に歩兵隊全体の一番手である。指揮に慣れ、隊員達もようやく付いてきてくれるようになったとはいえ、生硬さはまだある。それに、肝心の付いてきてくれるようになった隊員が、ほぼ全滅している。今の自分にはその役職は重すぎるのではないか、とプロデウスが思うのも当然だった。とはいえ、百人隊長全滅ではどうしようもない。
「ま、隊長はあれだけ俺らにぶっ叩かれてたのに、諦めずに向き合ってたもんな。資格はあるはずだって。昇進、めでたいじゃないですかい。」
後ろから馬に運ばれてきて、降りたばかりのデキムスが口を出す。この平民の男がそうまで言うなら、とプロデウスも腹を括った。コルネリウスの前で姿勢を正し、応える。
「我がパトローネスたるスキピオ家の長、コルネリウスよ、クリエンテスたるプロデウス・ナムロス、信義の神フィデスに誓い、プリムス・ピルスの任、謹んでお受けします!」

即座にプロデウスは作戦会議に出席する羽目になり、意見が交換される様子を窺うことになった。確かにこの席に着くのは目標だった。しかし、自分の功績というよりは他人の不幸で座っているのだから、気分はよくなかった。その上、会議で出されたのは、各地の同盟都市群をどうするか、という問題だった。現時点で動かせる戦力は精々ローマの防衛部隊と、街道封鎖に向かった部隊、そしてヘラクレアでの生き残りで、合わせてもヘラクレアで動員した人数よりは少ない。
出た結論は、ローマより南方にある各都市の放棄、だった。都市の住民を周辺に避難させ、被害を軽減させることに主眼を置くことにした。対抗策が完成するまでの時間稼ぎとはいえ、辛い選択ではあった。失敗すれば、同盟諸都市の離反を招く。避難誘導に必要性を感じ、会議終了のタイミングを見計らってプロデウスは書簡を認めてクイントゥスに送った。
「ふうう……。」
眉間に皺が寄っているだろうな、と思いながら、新任の首席百人隊長は肩を窄めて会議が行われていた天幕から外に出た。敗北を喫したというのに、見上げれば満天の星空だ。こんなときくらい天気が悪くなってもいいのに、などとプロデウスは空に八つ当たりしたい気分になったが、やめた。そんなことをすれば、軍神から見放されかねない。
「どうした、疲れたか。」
若い首席百人隊長に声をかけたのは、もう馴染みとなりつつあったティベリウスだった。相変わらず告訴人めいた雰囲気だけは変わらないが、スタンスは理解できた。あくまでもローマのため、そして、追い詰められないのであれば、可能な限りは正々堂々、というところだろう。声をかけられたプロデウスは彼に向き合い、言葉を返した。
「はい……。私の目標の一つである、上層部の会議への参加は達成されましたが……これは他者の不幸によるものですから。気が重いのです。」
「確かにな。だが、生き残れたのは、神々が貴公を見捨てなかったからで、それも後々役に立つと見なされたのだろう。生き残ったことに後悔でもしているのか?」
「いえ、それは……。」
どもりがちになるプロデウスを見遣り、静かでいて響くような調子で、ティベリウスは語る。
「ならば、拾った命の有効活用をするといい。それで、失われた命も浮かばれるはずだ。違うか?」
命の有効活用か、とプロデウスは考え込む。無駄に死なせないこと、助けることは当然として、何が有効活用になるのか、それが問題である。ここに来て、彼は考えないようにしていたことを、思い浮かべてしまった。今まで戦ってきた人間にも、家族や愛する人、友人はいたはずだ。兵士といえど、家に帰ればただの民間人である。戦場で人を殺すのと、街中で人を殺すのと、何が違うのだろうか。人を殺せばそれだけで、命の無駄遣いにならないのか、と。
しかし、とプロデウスは思い直す。戦争とはもう、集団同士の諍いの究極形なのだと。個人で悪になることも、集団なら意味が変わってくる。様々な人々の意思が混じり合う以上、何が正しくて何が間違っているのか、そんなことすら意味を失う。あるのは勝者と敗者のみで、正しいから勝つ、間違っているから負ける、などということはない。だからこそ、ローマは敗者と融合することを望んだはずだ。正義のための戦争という、これ以上ないほどの欺瞞を掲げないためにも、だ。
「……プロデウス?」
ティベリウスが自分の顔を覗き込んでいるのに気付き、プロデウスは驚いたように目を見開いて応える。
「あ、いえ、ちょっと考え事をしていました。」
「そうか……思索はいい。自分で自分に真理を教えることができる。だが、それに耽るのも危険だと覚えておくといい。」
どこか哲学的だな、と思いながら、プロデウスはこのパトリキの男に視線を向け、言葉を紡いだ。
「あの……貴方に聞きたいことが。先ほどのドゥルーススの『あれ』は、いったい……。」
「あれ」が何を意味しているのかは、張本人の兄である彼にもわかった。それはティベリウスにとって、言い辛い事だったらしい。固い顔が、僅かに歪んだように見えた。
「あれか……。あれはドゥルーススの内に秘めた『狂気』……としか言えないな。余程のことがない限り、ああはならないのだが……。」
「狂気、ですか?」
「人は誰しも、ああいう破壊衝動を有しているものだ。ただ、弟のあれは、蓄積されたもののようだ。」
蓄積ということは、過去に何かあったということか、とプロデウスは思い、次いであることに気が付いた。考えてみれば、ドゥルーススという男が自分のことを語るのは自己分析結果ばかりで、結果を生み出す過去を口にすることは稀だ。
しかも、もう一つ妙なことがある。あの手の幼さを有している人間は、大抵がわがままを口にする。ああしろ、これが嫌だ、と。だが、ドゥルーススにはそれがない。何かを強要することはまずあり得ず、それをしたのはプロデウスとクイントゥスを仲裁したときだけだ。
まだある。彼は悪戯を好んでいるが、それを仕掛けたとしても、怪我をするような真似は絶対にしない。驚いて飛び上がる程度だった。本当に幼いだけなら、手加減を知らないせいで怪我をしてもおかしくない。性格に矛盾がある。
「その、ドゥルーススに以前何かあったのですか? 教えていただけるならば……。」
しかし、眼の前の男はそれについて話したくないらしい。
「すまないが、これはクラウディウス家とポンピリウス家の話でな。時が来れば話すことになるだろうが、今は。ただ、これは言っておくべきだろうから、伝えておこう。ドゥルーススは貴公とクイントゥス殿、2人と出会ってから急に明るくなった。連絡をする際にも2人のことが多く書いてあった。貴公らには感謝しても足りることはないだろう。」
あの普段笑顔でいるようなドゥルーススが、明るくなったとはどういうことなのか。その疑問をプロデウスは友の兄にぶつけてみることにした。
「しかし、私といなくても、笑顔で応対を……。」
「あの子供じみた笑みか……あれは言うなれば、我々でいう無表情の状態だろうな。何も感情を持っていない、ニュートラルの表情、それがあの終始浮かべている笑みだ。」
「あれが無表情!?」
とてもではないが、そのようには見えなかった。パトリキの男は続ける。
「昔、共に暮らしていたとき、弟はもっと暗く……何というか鋭く研がれて、輝かんばかりに磨きぬかれた刃物を見つめているような気分になる、そんな目をしていたよ。引き込まれるような、冷たいような……。それがあるときを境に、あんな幼い性格に変わったのだ。」
今の彼からは、全く想像できない。狂気を表に出したときにも、その片鱗すら見せてくれなかった。何が本当の顔なのか、よくわからない。とはいえ、一つだけ手掛かりがあるとすれば以前に本人がこう口にしていた、この言葉だろう。
「だって、人付き合いは人によって態度を変えるものでしょ。」
この発言の「人によって」を「状況によって」に変えれば、現段階での疑問に応えられるような気がした。つまりは狂気も幼さも全てが本当の顔、と表現すべきなのか。プロデウスはそう考える。
「弟は今不安定なのでな。適当に時間を置いてから声をかけてやってくれ。それだけで、ああはならなくなるはずだ。」
そう言葉を投げかけたパトリキの男は、次の算段のために他の幹部たちの下に向かった。
「……。」
あの狂気を発露した後のドゥルーススは、尋常ではないほどに苦しんでいた。これまでのこともある以上、放置できない。プロデウスは彼の姿を探すことにした。

問題の男は、宿営地の外れで武装を解かないまま佇んでいた。血糊は拭き取られているらしいが、あれでは重苦しくてたまらないはずだ。ぼうっと星空を眺めながら、幼い笑みを浮かべている。それを見たプロデウスは、ティベリウスの言っていたことが本当だと悟った。あの笑みはただ存在しているだけで、無表情と変わらないのだ、と。
「あれ、プロデウスじゃないか。どうしたのさ?」
ドゥルーススはプロデウスが見ていることに気付いたらしい。ギリシア系の百人隊長は、ゆっくりと歩み寄りながら言葉をかける。
「どうした、もないでしょう。会議を終えてすぐに行方を晦ましてしまったのですから。心配しましたよ。」
「……僕は心配されるような人間じゃないよ。ああなったら、自分が何してても何にも感じなくなるんだ。危な過ぎるんだよ。」
どうも、あの狂気を見せてしまったことを、気に病んでいるらしい。笑みが消え、明らかに暗い調子に変化している。プロデウスは言葉を一つ一つ選ぶように、口を動かした。
「俺は大して気にしませんよ。確実に俺も刃物で斬り付けられそうになれば、頭が沸騰します。誰だって同じですよ。」
「僕が嘘を吐いてるかも知れないのに? 僕は態度が一貫してない。信用できないとか、思わない?」
自覚していたのか、とプロデウスは思う。急激過ぎる態度の変化や、目的が揺らいでいることなど、わかっていたようだ。ここまでの言動でドゥルーススが多重人格症を発症していないことがわかった。多重人格症を患っている場合、一部の例外を除いて記憶の断絶が少なからずある。しかも、少なくとも体の制御権が消失した、とは言っていない。多数の同一性、つまりは人格を持っているわけでもなさそうだ。
彼は、桁違いに感情の上下が激しいだけだ。プロデウスはそう結論付け、言葉を紡ぐ。
「心の揺らぎくらい、誰にもありますよ。確かに揺らぎが大きいかもしれない。でも、貴方はそれと向き合おうと必死になっている。十分ではないかと。」
「……。」
眼の前の幼い男が暗く沈んだのを見て、プロデウスは思い出したように言葉を放つ。
「おっと、忘れるところだった。先ほどの先行部隊を討ち取ってもらったお陰で、我々は助かりました。感謝していますとも。ありがとうございます。」
ドゥルーススの目が、輝いたように喜びで満たされた。いつも以上に、鎧兜が玩具めいて見える。
「ほんとに? 本当にそう思う?」
「はい、勿論ですとも。これで、俺もプリムス・ピルスとしてローマのために戦えます。貴方は命の恩人ですよ。」
プロデウスの言葉に反応するかのように、ドゥルーススの体がくるくると回転を始める。鎖帷子が軽々と舞い、回転の勢いで喜びが振り撒かれんばかりだ。
「やった、喜んでもらえた! 嬉しいな、僕が人に喜んでもらえるなんて!」
過剰なほどに喜ぶドゥルーススの顔からは、満面の笑みが浮かんでいた。その様子を見ていたプロデウスは、半ば呆れた調子で言葉を口にする。
「俺、大したお礼もしていないのですが……。」
「僕、喜んでもらえたの久しぶり! 嬉しいなあ、誰かの役に立てるのって、やっぱりいいなあ!」
久しぶり、という言葉を聞いて、不可思議な気分になった。そういえば、自分は礼を言われてどう反応するだろうか、と。普通ならその時に頭を下げて終わり、それだけだ。だが、ドゥルーススは性格が急激に変化したと彼の兄が言っていた。ということは、一般庶民ともエクイテスとも、ましてや貴族とも違う生活を送っていたはずだ。普通の反応ができなくなっているのは確かだった。
そして、その中で何らかの出来事があったことになるだろう。お礼や褒められること自体が稀である何かがあった、ということではないだろうか。プロデウスはそう思い、ドゥルーススに「実験」を試みることにした。
「あの、ドゥルースス。」
「ん、なあに?」
回転を止め、軽く首を傾げたように見るドゥルーススの頬を、プロデウスは軽く突いてみる。先ほどの狂気のトリガーとなるのは、もしかしたら顔への攻撃ではないか、と考えたからだ。だが、突かれた方はというと、満面の笑みを零しながらプロデウスに言葉を放った。
「やだな、僕みたいな悪戯はプロデウスには似合わないよ。」
「そうですね、ははははは……。」
踵を返し、自分が寝泊りするテントに向かおうとした矢先、プロデウスは妙なくすぐったさを感じ、その場で飛び上がった。鎧の隙間を縫うように、ドゥルーススが背後から脇をつついたのだ。
「うわっ!」
「悪戯ってこうするんだよ。あはははははは!」
笑い声を撒き散らしながら、ドゥルーススは走って逃げていく。その笑いからは、喜びと楽しさしか感じられない。プロデウスには、あれこそがドゥルーススの本当の顔だ、と思えた。

楽しく笑い合ったところで、ピュロスという避けようのない災厄が消えてくれるわけではない。プロデウスからの連絡を受けたカプアにいるクイントゥスは、まず信頼する百人隊長の無事と昇進を喜んでから、指示を出す。
「都市の住民をウェスウィウスに逃がせ! 女子供に老人と、体の悪い者を優先! 戦える者は全員の避難を見届けてからだ!」
後にポンペイを火山の噴出物で埋め尽くすことになるウェスウィウス火山も、この時期は休火山と思われていた。しかも、未だ深い森で覆われているので隠れる場所はいくらでもある。必要最小限の物だけ持って行けば、大した時間はかからないはずだ。とはいえ、カプアの住人は決して少なくない。それに、政務に関する書類は出来る限り持って行かなくてはならず、それもできなければ焼却処分するしかない。記録が消滅するのは厄介だが、利用されても問題だ。時間との勝負だった。
「ローマでは予備役の招集が始まったと聞く。反撃できる戦力を整えておかねば。」
カプアの守りを担当する市民哨兵6部隊を動員し、避難誘導を開始する。騒然とする中、クイントゥスもスキピオ家の後継者として陣頭指揮を執っていた。
「あの酒場を気になることだからな。」
荷車が軋む音を立てて通り過ぎ、皮袋と子供を抱えた母親たちが躓きながらも走っていく。そんな中、クイントゥスは行き慣れた酒場、ポエニの様子を窺ってみる。だが、あの見慣れたフェニキア系の店主はおらず、別の店員が慌しく避難の準備をしているらしい。
「ああ、クイントゥス様。こんなところまで。」
「あの、店主は?」
「はあ、私が店主です。あなたが知っている方は、我らのソチエタスの経理担当では……?」
ということは、普段はこの店にはいないということなのだろうか。今の今まで、よくぞタイミングを合わせたように出会えていたものだ。クイントゥスはそう思いながら、この店主に声を掛けた。
「とにかく、急いだ方がいい。物資を与えたくは無いが、命を持っていかれるよりはマシだろう?」
「はい、急がせてもらいます。ありがとうございました。」
私情だけで動くわけにはいかない。今は、他の民家の様子を探ろう。クイントゥスはそう思いながら、別の民家の様子を確認する。荷物を持ち出そうとしている老人の手を貸し、家財道具をまとめて持とうとする男に諦めるよう説得し、神棚を惜しむ家長に慰めの言葉をかける。誰がどう見ても、後継者には彼以外有り得ない。そう思わせていることも知らず、クイントゥスは自らの職務をこなしていた。

一方のピュロスは慎重だった。各地で都市の放棄、正確には都市規模での疎開を始めたらしいとはいえ、油断できなかった。下手をすれば都市に入ったところで包囲されかねない。事実、クイントゥスはそれを身構えていたようだ。それに、ピュロス率いるエペイロス軍とて被害が無かったわけではない。追撃を進言したキアネスに向かって、ギリシアの名将は口を開いた。
「我々は傭兵のようなものとはいえ、ギリシア人として同胞を助けに調停役としてここにいるはずだ。だというのに、自分が損耗するのも馬鹿馬鹿しい話ではないか。」
「ですが、余勢を駆るのも悪い方法ではないかと。」
「被害が無ければそれでもいいが、今突撃すれば待ち構えた石に自ら脳天をぶつけに行くようなもの。勝ったことには勝ったのだ。これで講和を受け入れないわけがない。」
ギリシア人やカルタゴ人の常として、戦争に勝った場合に相手を服従させるのは勿論だが、彼らは恒常的に占領しようとは考えない。講和金と貿易によって発生する利益を渡せと要求するのが常識である。ローマは打ち倒した相手を自らの勢力圏に組み込み、まるで融けた金属を混ぜ合わせて合金を作るように同化してしまう。この時点でわかることは、認識が確実にずれている、ということだ。
ギリシア側からすれば利益を得れば十分だが、ローマは脅威を徹底的に排除し、殴り倒し尽くして起き上がれないようにして、それから初めて勝者として講和のテーブルに着く。ギリシアはペルシア戦役以外ほとんど内紛に終始している上、戦った相手が文明の民ばかりだった。それに対し、ローマは異民族相手に戦ってきた上、ガリアの蛮族のように首都まで占拠された過去にも影響されている。特にガリア人は都市の使い方がわからないため、放火、殺人を楽しんだ後、死体を水道に投げ込むなどした挙句、疫病が蔓延して撤退したのだ。相当に文明強度が違いすぎる相手と戦っていたのだ。
『話せばわかる相手なのか、それとも殴り倒さなければわからない相手なのか。』
今まで相対してきた敵が違えば、対応に食い違いが出るのも当然だった。ピュロスには、ローマ人の戦法は理解できても、生き方が理解できなかったのだった。
「ローマ人は面白い連中だが、我らギリシアの文明の非ではない。未開という悪夢から醒まさせてやるのみ。」
ピュロスは使者へ持たせるための親書と、ついでとばかりにちょっとした宝飾品を用意する。彼にしてみれば、戦争など試合に近い。敢闘した相手への敬意を表してローマの女たちへの手土産、と洒落込んだだけである。
「これでおとなしくなるはずだ。次はシチリアだな……。」

ローマの元老院では、意外な対応に驚いていた。今まで戦ってきた相手は、ガリア相手以外は踏み込ませていないとはいえ、首都のローマまで進軍しようとしていた面子ばかりだった。ところが、あのギリシアのアレクサンドロスの後継者を名乗る男は、全く進軍しようとせず、ターレスに留まったまま動こうとしない。しかも、手紙と一緒に送られてきたのは、目も眩むような財宝の数々だった。
ローマの元老院には決まった会議場がない。適当な神殿を選んで一般人に立ち入り禁止を命じた後、警護兵に守らせてから会議に入る。今回はユピテル神殿を借りての会議だった。本来なら凱旋式に用いる神殿ではあるのだが、国家の危機への対策ということで使用していたのだった。避難させた人々をとりあえずはカプアに戻したクイントゥスも、後継者として傍聴していた。サムニウムの代表として、オタキリウスも控えている。
「しかし、どうするべきだと皆々は考えるか。」
議長役のラエヴィヌス執政官に促され、元老院議員たちは唸りながら意見を述べる。
「今我々が真正面から戦えば、間違いなく粉砕される。」
「だからといって、あのような危険な連中をイタリアに留め置くわけにもいくまい。」
「講和の内容は精々が互いの勢力を尊重すべし、というだけではないか。」
「決して我らとしても悪い条件ではないはずだが。」
「負けたまま終わるのも……。」
「だが、再び戦って生き残れるのか? 失敗すれば今度こそローマは終わりではないのか。」
やはり敵が敵だ。会議の空気は講和に傾き始めていた。しかし、ユピテル神殿の入り口から三人分の影が入ってくる。その内の二人はクイントゥスが良く知るティベリウス・クラウディウス・ポンピリウス・ネロとドゥルースス・ポンピリウスだ。彼らが支えているのは、街道と水道の整備で名高い、監察官アッピウスだった。既に目も見えず、力もほとんど失った老人ではあったが、声の調子だけは衰えていなかった。
「我々は敗北して講和したことはない! 講和の席に着くときは勝者としてのみ! それが我らローマの伝統ぞ!」
養子と甥に支えられた老人の、この一言だけで十分すぎた。全員が、徹底抗戦の意思を明らかにする。会議場は、すぐさま作戦会議の場と化した。
「あのホプリタイ相手に戦う場合、正面突破は確実に勝てない。別の方法を講じる必要がある。」
議員の誰かがそう口にした。それに対して、ティベリウスが発言をする。
「これは私の経験なのだが、ホプリタイは我らのレギオンと比べて、極度に後方の守りが薄いように思える。何とかして回り込めば勝機もあるはずだ。できることならば、私と共に戦った者たちに意見を許可していただきたい。」
ティベリウスがそう口にすると、心得たとばかりにラエヴィヌスが傍聴席に控えるティベリウスの弟とクイントゥス、そしてオタキリウスにも意見を求めた。
「実際に戦場に立った者としての意見を述べてもらいたい。三者、前へ。」
その言葉を受けて、演台の上に立ったドゥルーススが慎重に口を開いた。
「そうですね。私が思うに、あれは開けた平原に適した陣形かと。あの長い槍を生かすためには、障害物がない地勢でなければ。それに、確実に機動性にも欠けています。個々の兵士を散開させ、うまく隙間に入り込むことができれば、切り崩しも可能ではないのでしょうか。」
後を受けて、クイントゥスも演台に上って発言する。
「私も同意見です。可能であるならば、山岳地帯の森林が一番適しているのではないかと思われます。我らの勢力圏でそのような地勢といえば、サムニウムではないかと。彼らの合意と協力の元、エペイロス軍を彼の地に誘導、その後に迎撃すべきではないでしょうか。」
サムニウムの名が出たところで、今度はオタキリウスが言葉を紡いだ。
「サムニウムの者たちは、一致してローマに協力する体制を整えております。ファランクス封じに適した地勢としては、アスクルムが最適でしょう。あそこは平原が近く、得意の戦法が使える地勢と考えるはずです。そこで攻撃を牽制のみに留めて誘導し、森林部で敵部隊を各個撃破すればよいかと。この手の地勢に慣れた散兵部隊を有しておりますので、補助部隊として動員していただければ。」
これで決まった。ピュロスの要請は、否決。同時に贈り物は、返す。迎撃地点は、アスクルム。後は互いに準備を整えるだけだ。会議が終わり、議員たちは自分のクリエンテスたちを呼び寄せるため、自宅に戻っていった。ティベリウスは打ち合わせということで一度神殿の外に出た。ドゥルーススは兄の補佐ということで、それに付いていく。クイントゥスもカプアに戻ろうと厩に足を向けた。そこを、誰かに呼び止められた。
「ああ、クイントゥス・スキピオ殿。少し話をしたいのだが。」
椅子に座ったままの盲目のアッピウスだった。厳とした雰囲気は、それを受け継いだだろうティベリウスよりも、はるかに強いものだった。だが、クイントゥスに向けられる気配は、どちらかというと息子の友人に向けられるそれに近かった。
「はい、何でしょう?」
インフラ整備の名手として、クイントゥスはアッピウスを尊敬していた。相手が盲目であることはわかっていたが、それでも姿勢を正したくなる。直立不動のまま、彼はアッピウスに向かっていた。
「貴公の事はティベリウスとドゥルーススから聞いておる。よき友人だと。貴公のクリエンテスのプロデウスとも、仲良くしてもらったとドゥルーススが喜んでいたぞ。」
クイントゥスは何と応えればいいのかわからなかった。自分の名前を、自分が尊敬している人間に伝わっている。返事など、できるわけがなかった。
「ただ……迷惑かも知れんがな。ドゥルーススのことを、どうか見捨てないでほしい。」
「……はい?」
ドゥルーススは確かに妙なところはあるが、幾度となく助けてくれている。見捨てるなど、考えたことはなかった。だが、アッピウスはどこか不安そうに口を開いた。
「私はティベリウスの才能に惚れ込んで養子にしたが、そのためにドゥルーススに辛い想いをさせてしまった。彼の心が修復されることなど、もうないだろう。私の浅慮のために、彼の心を犠牲にしてしまったのだ。」
プロデウスからの報告で、ドゥルーススが狂気を爆発させたことは知っていた。だが、そのことと修復不能の心が関係するなどとは、今のクイントゥスには考えられなかった。ただ、こうは考えられる。あれだけ仲のよい兄弟なら、2人が一緒にいられなくなるだけで、十分すぎるほどのストレスにはなるだろう、とは。
「ドゥルーススにとって初めての友人が、貴公ら2人とオタキリウス殿だ。どうか、見捨てないでほしい。ドゥルーススも、可能な限りは貴公らを助けることだろう。」
この老賢人を安心させるべきだ。クイントゥスはそう思いながら、ゆっくりと口を開いた。
「私は助けられてばかりですから、何とも言えません。ですが、私は彼を見捨てるつもりはありません。大丈夫ですとも。」
監察官だった老人は、ほっとしたように息をつき、見えないながらもその目をクイントゥスの方に向けた。
「ありがたい。これでドゥルーススのことを心配せずに済む。クイントゥス殿に深く感謝している。では、またいずれ。」
アッピウスは家の使用人を呼び寄せたのか、両脇を抱えられながら会議場だった神殿から出て行った。その姿を見送りながら思案する。
「俺は助けられている。ドゥルーススは俺に何を求めているのだろう。」
頼みもしないのに、あれこれと手出ししては助けていくドゥルーススには、困惑することにはするのだが、結果的には助かっている。先んじて手を打つ様はまるで、自分が望むものを見越すようだ。
だが、クイントゥスにはドゥルーススが望むものが何なのか、まるで想像がつかない。地位も要らない。パトリキとしてそれなりの生活をしているのだから、金にも興味は無いらしい。ローマ人なら誰でも欲しがる名誉すら欲しがらない。戦果を挙げることには挙げているが、あれは公共心の発露にしか見えない。個人的に殺戮を好むどころか、殺すこと自体嫌っているらしい。
態度も首尾一貫しているようには見えなかった。知識を好むようだが、クイントゥスが知っていることは、大抵ドゥルーススも知っている。書物を贈ることも考えたが、無駄のようだ。
「どうやら俺は、ドゥルーススについて知らないことが多すぎるらしい……。」
ドゥルーススについて知らないことを教えてもらおうかと、アッピウスに聞こうとしたが、もういない。兄のティベリウスも姿を消している。本人はと思ったが、まさか本人の口から聞くわけにもいかない。
「仕方ない、プロデウスと相談するか。」
スキピオ家の後継者は、ローマの宿舎で待っているはずの、年若き主席百人隊長の下に向かうことにした。


9 苦く、熱く


ヘラクレアから一年後、再びピュロスはローマに挑む。今度はローマも準備を整えていたが、ピュロスも考えたものだ。ローマの誘導策を敢えて受けておき、同時に北方のガリア人を唆して、ユリウス家の本拠地があるエトルリアのアッレティウムに攻撃させることにした。
ローマの対策が無駄であったことを見せつけ、なおかつ戦略レベルで挟み撃ちにする。ガリア人に対しては、大して期待はしていなかったピュロスではあったが、多少戦力を削ることくらいはできるだろう、とは思っていた。
「で、僕はユリウス家への援軍、と。兄者も無茶してくれるよ、全く。」
馬上で頬を膨らませながら、ドゥルースス・ポンピリウスと呼ばれる男は馬の手綱を握り、ユリウス家の総領であるフラウィウスと合流するために急ぐ。彼はようやくローマ本軍の武将として任命されるまでになった。とはいえ、彼が率いているのは自身の護衛騎兵50人以外は、市民哨兵2部隊、ハスタティ2部隊、ウェリティス2部隊、弓箭兵隊2部隊、エクイテス2部隊である。大きな戦力とは言い難く、小規模支援遊撃部隊とでも言うべきものだった。
しかし、ガリア軍は数で押してくる敵である。現在ガリアとローマの国境は、後にポー河と呼ばれることになるパドゥス河であり、この水量豊かな河の水を蹴立てて渡って襲い来る群れを押し留めたくば、質も必要だが数も必要だった。それを熟知していたフラウィウスは諸手を挙げてドゥルーススを歓迎したものだ。
「あなたがいれば心強い。何とか持ちこたえられましょう。」
「僕にできることは大したことではないでしょう。それでも、やれるだけはやります。南方戦線がうまくやってくれることを、マルスとミネルヴァ、それから我らがユピテルに祈りましょう。」
とりあえずは、多少子供っぽい口調を抑えられるようにはなったらしいが、それでも完全ではないらしい。だが、フラウィウスにはそんなことはどうでもよかった。元老院からの援軍である以上、言うことは何もない。
「まずは、敵が侵入しないようにしなければ。パドゥスを渡られないようにするためには、一箇所だけある、中州のある浅瀬を封鎖すべきでしょう。」
さすがに歴戦のフラウィウスは、ガリア軍の行動パターンを読んでいる。警戒すべき場所は把握しているらしい。だが、ドゥルーススはあえてそれに反対する。
「いえ、むしろそこに誘導しましょう。浅瀬から足を踏み外せば、流れに押し流されますから、細長い一本道と化します。要するに、目に見えない橋です。だとするならば……飛び道具一点集中で抹殺することも、疲労させることもできましょう。」
「……なるほど。それはいい。ですが、敵も渡河を待つとしたら、どうします?」
「僕たちの任務は、パドゥスからガリア軍を南下させないことです。ですから、向こうが動かないならそれでよし、仕掛けてくるなら相手をする。それだけですよ。ま、可能なら僕たちがガリア軍を打ち破って取って返して、ピュロス軍を攻撃する、これが最善です。とはいえ、物事はいい方向には転がってくれませんから。待ちましょう。」
未だ27だという、一人前にもなっていない若さだというのに、ここまで言い切った。10歳以上年上であるはずのフラウィウスも唸るしかなかった。彼が気付いたのは、ドゥルーススが「ピュロス軍」という言い方をしたことだった。これは、エペイロスの軍勢がピュロス一人で支えられていることを見抜いていたからだが、あえてそのことにフラウィウスは触れようとしなかった。
「ふむ。いい方法ですな。では、今回私は副将になりましょうか? 貴方に任せた方がよいかも知れない。」
だが、押し留めることができればこれ以上ない栄誉を得られるというのに、ドゥルーススは首を縦に振らなかった。
「いいえ。僕こそ、副将となりましょう。そちらの方が、僕としてもやりやすい。それに、市民の支持こそ、貴方には不可欠なものでしょう?」
ユリウス家は基本的に、民衆寄りの政策を行うことで有名だった。ガリアを打ち破って市民を守ったとなれば、これ以上ないほどの栄誉である。ドゥルーススはそれを使えるだけ使えと言っただけだった。
「う、うむ……。」
このユリウス家の総領は不思議がった。だが、ドゥルーススはどこ吹く風だ。クイントゥスも感じた疑問だったが、この幼い男は富も名誉も全く欲しがらない上に、責任から逃れるかのように副将であり続けようとする。どこまでも不思議、というよりも変人そのものである。
「とりあえず、僕たちはここで睨み合い。アスクルムがどうなってるか、心配だけどね。」

ドゥルーススが睨み合いを決めた一週間後、そのドゥルーススが心配しているクイントゥスたちは、アスクルムにいた。前日行われた前哨戦ではエペイロス側が多数の死者を出した、というのがローマの見解である。とはいえ、ホプリタイに死者が出て、ハスタティに死者が出なかっただけだ。多数というのも、所詮は主観に過ぎない。だが、ローマの軍勢は沸いていた。ヘラクレアでは、全く手も足も出なかった。だというのに、逃げ惑うのはピュロスの軍勢のほうだった。これでは、沸くのも無理はなかった。
だが、クイントゥスもプロデウスも、ティベリウスもオタキリウスも目を曇らせることはなかった。四者は同じテントに集まって、額をつき合わせながら話し合っていた。
「どう考えてもあれは囮だ。このまま戦ったところでピュロスに手の内を晒すのみになろう。」
ティベリウスに、クイントゥスは同調する。
「俺も同じ考えです。ただ、今回兵士たちの制御は難しいでしょうね。ハスタティが主力ですから。」
ピュロスに散々に打ちのめされたローマ本軍もスキピオ軍も、領内でハスタティを大量編成せざるを得なかった。戦闘のために、プリンキペスにふさわしい年齢層の人々に不足していたからだ。ハスタティは若い分機動力に優れ、戦闘力も申し分ないが、どうしても経験からくる「粘り」が足りない。戦線を維持するためには、この粘りが必要だ。
その上、判断ミスは若ければ若いほど多くなる。勝手な行動も取りやすくなる。しかも、周りがハスタティだらけなら、群集心理が働いて、一斉に命令違反を働きかねない。クイントゥスの心配も、当然だった。
「我々百人隊長も、尽力いたします。ただ、森の中で視界が悪いので、連絡頻度を増やす必要があるかと。それから、騎兵はサムニウム兵を主体にすべきではないかと思います。この辺りの地勢に慣れている者を主力にしなければ、テッサリア騎兵に対抗できません。」
プロデウスの意見を聞いたオタキリウスも、ティベリウスに進言する。
「私の配下の騎兵隊も、十分に地勢を理解しております。ウェリティスも問題ありません。ただ……ローマの人間の横で戦いたくないという者も、いないわけではないので……。」
歯切れの悪いオタキリウスの言葉を耳にし、ティベリウスは表情を曇らせた。確かに、ローマと協力体制を整えると言ったのはサムニウムである。だが、サムニウム人全員が納得したわけではなく、妥協の産物に近い部分も少なからずある。個人の心の中までは、協定や法律で縛ることなど事実上不可能である。そのことをオタキリウスは口にしたのだろう。ティベリウスもそれは知っている。
だが、横で戦えないと言っている者を放置しては、共同体に罅が入る。勝者たるローマと、敗者たる他の地方の人々が、並んで戦ってこそローマ軍だ。今回は味方となって長いエトルリア人が北方戦線に向かっているため、余計にラテン人とサムニウム人が目立つ。これでは、ローマらしい戦いができない。
「ふむ。私もそれを放置する気はないのでな。待っておれ。その問題を、少しずつでも解決しようではないか。」
とりあえずはお開きとなり、クイントゥスはオタキリウスと何やら相談だ。天幕から出て行った。プロデウスとティベリウスが取り残され、二人で話すことにした。
「プロデウス、どうだ。プリムス・ピルスとしての仕事は。」
「はい、何とか。今まで以上に忙しい。ですが、問題ありません。私は私なりに、この仕事を気に入っていますから。」
「ふむ……。」
ティベリウスが考え込んだのを見て、プロデウスは声をかけてみた。
「あの、ティベリウス殿。」
「む、何だ?」
「ドゥルーススのことなのですが。今回はこちらには回しませんでしたね。何故です?」
弟はこの男に心配してもらえるようになったか、と思いながら兄たるティベリウスは言葉を紡いだ。
「弟は我らと一緒にいるのが当たり前になっている。そろそろ我らなしでも戦ってみるのもよかろう、と考えたのだよ。」
「しかし、我々と引き離されるということは、相当にストレスになるはず。下手をすれば、狂気状態に移行しかねないのでは?」
プロデウスには何となく、あの狂気のタイミングがわかってきた気がした。ドゥルーススが強いストレスを受けたときに、何らかのきっかけによって発現するのではないか、と。プロデウスは、ドゥルーススが自分たちと一緒にいる間は安心できるらしいことから考えたわけだが、間違ってはいないはずという自信はあった。どうやらティベリウスも、それは知っているらしい。しかし。
「無論、それは想定している。だが、依存性の強さは妄執にしかならん。曲がりなりにもポンピリウス家を継ぐのはドゥルースス。今までのように私や貴公らに甘えているわけにもいかなくなる。」
甘えか、とプロデウスは思う。確かに、甘えだろう。ただ、プロデウスにはドゥルーススのそれが飢餓状態にあるような印象を感じた。それでいて、自分から求めようとは思っていない。無意識下で甘えようとしているらしい。いや、無意識下だからこそ、強く求めてしまうのかもしれない。
「不思議な弟だが。私なりにドゥルーススを自立させたいのだよ。」
家を継ぐべき人間のはずなのに、百人隊長の男はドゥルーススから、やけに軽い感覚を受けた。元々が次男である以上仕方ないかもしれないが、それにしてもおかしい。自立させたい気持ちも理解できた。
「なるほど……。」
「それに、今回はドゥルーススの力量を測る機会でもある。今までの積み重ねが、生かされるときだぞ、ドゥルースス……。」
遠い目をして呟くのを見て取ったプロデウスは、ティベリウスから離れ、歩兵隊が集結している広場に向かう。こちらでは、百人隊長に出世した平民出身のデキムスがハスタティたちをどうにか纏めていた。
「デキムス、ご苦労様。後は俺がやる。」
「待ってた。後は頼むわ。」
軽いやり取りを交わし、二人は擦れ違って片方は兵士たちの前に、もう片方はプロデウス指揮下の歩兵隊、スキピオ軍第二ハスタティの隊列先頭に立った。プロデウスが睨みを利かせている間は、誰も身じろぎすらしようとしない。これがデキムスだった場合は隊列を組むことには組むが、かなり雑然としていた。さすがに指揮官としての訓練を受け、経験を積んだだけはある。それに、プロデウスの年はもう30に達していた。一人前とみなされるこの年齢だ。プロデウスの自覚もあいまって、ハスタティからは信頼されているのであった。
「兵士諸君。俺たちはこれから、あのエペイロスの連中を撃砕しに行く。だが、忘れるな。俺たちは勝ちにいくのであって、死ににいくのではない。絶対に深追いするなよ、わかっているな!」
「おう!」
言葉は、駆使した。だが、行動できるかどうかは、プロデウスにもわからなかった。ただ、彼ができたのは片刃の長剣を握り、パトローネスたるクイントゥスを信じることだけだった。
布陣前のアスクルムで全員が集合している中で、幕僚の一人であるティベリウスが、指揮官プブリウス・デキウス・ムスの許可を得て演説を始めた。さすがに、彼が演壇に立っただけで全員が静まり返る。静寂な空気の中、自信にあふれた貴族の男の声が響き始めた。
「兵士諸君。私はローマ人であることに強い誇りを持っている。」
クイントゥスのように叫ばなくても声が隅々まで届く。さすがティベリウス殿、とプロデウスは思ったが、そんなことはお構いなしにティベリウスの声は続いた。
「しかし諸君、我らがローマと共に歩むと決めた後であっても、ローマに対して快く思わない者がいる。」
サムニウムの人間のことだ、とその場にいる誰もが思った。だが、それを口に出すことも身動きもできない。「声」が、縛り上げているらしい。
「私はそのことを咎めようとは思わない。彼らはローマに打ち破られた者たちである。ローマに恨みを持つなと無責任なことは言えない。しかし、諸君。」
水を打ったような静けさの中に、何か張り詰めたようなものを感じた。それが何なのか、最初はプロデウスもクイントゥスも、そしてオタキリウスもわからなかった。だが、この三人はすぐに気づいた。ティベリウスの内に秘めた、「熱さ」だと。この熱さの理由もプロデウスには理解できた。
ヘラクレアで、騎兵団による決戦を進言したらしいことはプロデウスも知っている。その進言のために、敗北のきっかけを作ったようなものだと、ティベリウスは考えたのだった。今度こそ、何としても勝つ。だからこその熱さだった。
「我々ローマにも理があると信じている。その結果、ローマが勝った。勝っただけだ。そこに正しさも誤りもない。ただ、我らローマができる限りのことをし、その結果として神々の加護を受けただけのことである。故に、私は元々が敗者だからとして疎んじるようなことはしない。」
共同体意識の強いティベリウスだけはある。静けさは相変わらずだが、その空気には熱が含まれ始めていた。演壇の上の男は続ける。
「私は打ち破った者たちのためにも戦う。ローマの者たちにも、そうあってほしいと私は思っている。強制はしない。ただし、私がこれから言うことを、実践してもらいたい。今から私が口にすることを、全員で高らかに唱えよ。ローマの者は『プロ・ローマ』、それ以外の者は『プロ・レス・プブリカ』と。両方唱えたい者は両方唱えてくれていい。」
「プロ・ローマ」は「ローマのために」を意味し、「プロ・レス・プブリカ」は「レス・プブリカのために」という意味になる。このレス・プブリカは多くの意味を含んでおり、「共同体」「国家」「共和国」、もっと身近になれば「集まり」となりもする。これを唱えろということは、自分にとって大事なものは、これらの意味の中のどれかに当てはまるはずなのだから、全員で唱えて団結しろ、という意味である。共和制主義者なら「共和国」を、自分たちの民族が大事なら「共同体」を、国体はどうあれ国を守りたいなら「国家」を、戦友と戦うのであれば「集まり」を選べばよい。
言葉の力は馬鹿にならない。ティベリウスはそう信じているからこそ、このようなことを口にした。彼の口は、多くの人々を結び付けるべく、言葉を紡ぎ始めた。
「では、復唱せよ。プロ・ローマ、プロ・レス・プブリカ。」
「プロ・ローマ! プロ・レス・プブリカ!」
「プロ・ローマ!」
「プロ・レス・プブリカ!」
声を挙げることに消極的ではないにせよ、両方唱えたプロデウスには、ばらばらと声が挙がるように感じられた。だが、今はこのくらいだろう、とでも言いたげなティベリウスの顔を見て、顔を引き締めた。すぐに効果が出るわけがない。これからゆっくりと変えていけばいいだけだ。
「諸君らに感謝する。いずれは全員が両方とも唱えられるようになっていることを期待する。」

朝靄の中、アスクルムに布陣したローマ軍は歩兵全体の隊列を荒くし、ピラとピルムの一本ずつではなくピルム二本を装備させて前進する。同時に、サムニウム出身者のウェリティス、弓箭兵隊を配備し、後方から敵のエペイロス軍を攻撃させた。間隔を広く取ることで敵の射撃兵器をかわし、多方向からピルムを投げつけることでファランクスを粉砕するつもりだった。
だが、今回ピュロスも隊列を荒くしている上、武器もサリッサではなく通常の長さの鎗を装備していた。密集隊形に対抗するために森に誘い込んだというのに、これでは決定打が与えられない。お互いに乱戦に近い状態で戦闘が進む。エペイロス軍後方からも射撃兵器が舞い、空中で飛び道具同士が交錯する。
「もー、わけがわかんねえ。いいか、慎重に行け。隊列ばらけてるのは俺たちも連中も同じなんだ、気ぃ抜いた方がやられんぞ!」
デキムスは声を張り上げながら、プロデウスの姿を探す。主席百人隊長も乱戦気味の戦局に困惑しているらしい。だが、号令を放つ喉と、敵を刺し貫く剣を持つ手はいつも通りだ。
「動きを封じろ! 最前列、第二列、第三列、ピルム構え! 放て!」
日の光が漏れ来る森の木々の合間を縫って、重投擲兵器が放物線を描く。エペイロスの兵士の脳天を粉砕して殺害し、盾に突き刺さって左手を降ろさせる。そこにプロデウスの命令が下った。
「ハスタティ、一人に対して三人で攻撃しろ! 絶対に一人で戦うな、確実に消せ!」
エペイロスのホプリタイが、次から次へと血祭りに挙げられる。プロデウスも、大きく成長したと言える。兵士たちも、ついてくるようになった。ティベリウスの演説が、プロデウスの心を熱くしていたということもある。
「隊長、頑張ってるんだな……って俺も隊長か。おい、そこ! 勝手に突進するな! ……まったく!」
プロデウスの奮闘は、デキムスの心も熱くした。体が燃えている。ヘラクレアの生き残りであることと、プロデウスを守ろうとしたことを受けて百人隊長に就任したデキムスである。能力なしで出世するわけもないのだから、判断力は十分だ。だが、今の状況はデキムスには抑えられそうもなかった。
だが、これこそが彼らにとっての不幸になるとは、思いもしなかった。

同時刻、パドゥス川では押し寄せる蛮族相手との戦端が開かれようとしていた。前日から続いた小競り合い、とはいっても渡河しかけたガリア軍目掛けて槍を投げつけただけだったが、確実にガリア軍兵の数が減っていた。これに学んだらしいガリア軍は、前衛に散兵団を繰り出してきているらしい。だが、これはドゥルーススにとっては想定範囲内の話であった。今度はローマ側のウェリティスを後方に下げ、代わりに市民哨兵団を前衛に出して、その後方をハスタティが支え、最後の押さえにとトリアリィが歩兵最後衛を務める。
その左翼にローマ本軍の、右翼にユリウス家の、それぞれの弓箭兵隊を配して川の向こうの敵に狙いをつけていた。将官護衛騎兵団はまとまってトリアリィのすぐ後ろにつき、すぐさま指揮を取れるように構えていた。
「どうします? 敵の散兵は弓箭兵隊の射程範囲ぎりぎりにいるようですが。渡河を待てと?」
「僕たちから渡河しなくても、向こうから来ますよ。そう仕組んだのですから。」
何を仕掛けたのやら、とフラウィウスが考えていると、伝令がドゥルーススの下に駆け寄ってくる。
「ポンピリウス軍団長! 決闘を受けるとガリア側から通告がありました! 場所はパドゥスの中洲で、とのことです!」
「ご苦労様、ありがと。」
何とも無いように返事をすると、ドゥルーススは黒い愛馬の手綱を握り、兜の緒を締めた。それに驚いたのはフラウィウスだ。
「な……決闘!? 指揮官自ら!?」
「ガリア人は未開の民。剥き出しの力に従うものですよ。特に指揮官の「力」を見せないと納得しない人たちですから。今、力を見せてつけておけば、後々役に立ちますよ。それに、僕が勝とうが負けようが、決闘が終われば突進しますよ、ガリア軍は。僕に勝てば威勢を上げて、僕に負ければ仇討ちに、ってね。」
確かにその通りだが、フラウィウスはドゥルーススが放った自らの命を捨て去るような言葉に震えた。自分の命すら作戦のために投げ出せるのであれば、兵士の命も大したことには感じないのではないか、と。
「まるで……人間ではないように見えるぞ……。」
市民から人気のある男は、馬を操る幼い男の後姿を見送るしかなかった。馬を駆る当の本人はというと、いつも通りの子供じみた笑みを浮かべたままだ。つまりは、無表情である。感情を極力表に出さないように努めているようですらあった。
ドゥルーススと相対した男は、鱗状の金属板を革製の服に縫いつけた鎧である、スケイルメイルを身に纏った騎兵だった。三つ編みを顔の両側に垂らし、筋骨逞しい肉体からは男臭さが滲み出ている。彼らには浴場というもの、そして入浴という習慣が無いので、臭いは際立っていた。
この手の鎧を身に着けているということは、指揮官クラスしかあり得ない。事実、この男は対ローマ方面ガリア軍副官で、ゲトリクスという名前を持っていた。
「で、僕の相手は貴方なのかな。言葉が通じてないみたいだけど。」
「俺に挑んだことを後悔するなよ。いや、後悔ならあの世でやってくれ。俺の言ってることがわかるとは思えないがな。」
互いに自分たちの言葉で言い合いをしているので、通じていない。だが言い合いだけは、しばし続けることにしたらしい。
「ま、僕の誘いに乗るなんて、単純だよね。」
「いい年をした貴族という話だが、ガキ臭いやつだな。」
じりじりと、周囲の空気が焼け付く。決闘を見守ることにしたはずの両軍の兵士たちは、気のせいだと思いながらも、妙な焦げ臭さのようなものを感じていた。それでも、ドゥルーススとゲトリクスの言い合いは続いている。
「略奪如きで鍛えただけの蛮族じゃ、僕には勝てないでしょ。」
「都市生活になじんだ雑魚を蹴散らすのは容易いことだ。」
言葉は通じていなくとも、語調と表情で悪口を放っていることくらい、お互いにわかる。手にした鎗を握り締め、手綱に振動を送る。
「始めようか、蛮族の祭りみたいなものをさ。」
「死合いの始まりだ!」
中洲の砂を蹴立てて馬が交錯し、鎗の穂先が激突して火花を散らす。羽飾りのついた兜のガレアが揺れ、スケイルメイルの金属板同士が打ち鳴らされた。二人は弧を描いて再び向き合った。
「やはり手強い!」
「これは……!」

一方のプロデウスたちは、恐ろしいほどに順調だった。歩兵隊はホプリタイを手当たり次第に殺しまくり、森の中でサリッサを使うことができないテッサリア騎兵は両翼に配置したエクイテスに追い散らされていた。だが、この状況こそ、プロデウスもクイントゥスも、ティベリウスもオタキリウスも警戒していたものだった。すぐエペイロス軍の裏手に平原が広がっている。誘い出されれば、完全に壊滅する。
だが、止めようが無かった。攻撃は順調、兵士たちはやる気十分である。これで止めろという方が無理だ。隊列の荒さが、それを助長した。互いに無秩序の行動を増幅される羽目になる。プロデウスの指示も届かないケースが増えた。デキムスが察して声を張り上げてみたが、新米百人隊長の言葉を聞かないハスタティが続出した。
そうこうしている内に、森の切れ目に到達してしまった。気づいたときにはエクイテス隊はテッサリア騎兵と逃げていたはずのロードス投石兵、同じく後退していたクレタ弓兵に追い散らされた。その上、これでもかと歩兵隊右翼側には象の姿がある。象を仕留められそうなウェリティスも弓箭兵隊も、同士討ちを考慮して後方に下げてしまっている。
それだけでも十分に悪夢である。だが、エペイロスのホプリタイはそれに追加して斜線陣を布いていた。敵の戦列に対して斜めに布陣するこの陣形は、矢に対する盾の緩やかな湾曲とほとんど同じ働きをしている。面に直角な方向に対しての攻撃速度を低下させるのが盾の湾曲、後の言葉で言えば「避弾経始」である。これと同じように、兵士の戦列に対して斜めに戦列を設定することで、白兵によるダメージを「滑らせる」ことが可能だった。
ハスタティたちをどうにか止めようとして、声を枯らしかけたプロデウスだったが無駄だった。斜線陣と象の攻撃を受けてローマ歩兵団が壊滅状態になる。クイントゥスとティベリウスは、エクイテス隊の援護でこの場にはいない。射撃部隊の指揮をしていたオタキリウスは、前線での異変に気づいてウェリティスと弓箭兵隊を展開させるために指示を送っていた。だが、もう遅い。勝利は手の届かないところまでいってしまった。
「くっ……! アスクルムまで撤退! オタキリウスのいる射撃部隊のいる場所まで戻れば象からは守ってくれる! 急げ!」
ヘラクレアのときのように、あちこちでテッサリア騎兵の追撃が始まった。あのときの苦い思いが蘇る。だが、今は当時とは違ってプリムス・ピルスという大事な仕事がある。無駄にも死ねない。無駄に死なせることもできない。責任の重みとはこういうことなのか、とプロデウスは思わざるを得なかった。

プロデウスの死闘と同時並行して、ドゥルーススの死闘も熾烈を極めていた。互いの鎧に穂先が当たることには当たるが、大した打撃に結びつかない。鎗の柄がぶつかり合い、弾かれながらも落馬せずに持ちこたえる。
「くぅ……。」
「む……。」
両軍は二人を見守るだけだ。ガリア人は瞬発力だけが強力、という評判はどうやら、兵士だけらしい。指揮官クラスは持久力まで持っている。しかも、ドゥルーススは小柄とは言えなかったが、大柄でもない。ローマ人の平均身長よりやや小さい程度だ。これではゲトリクスの体格に勝てるわけも無い。
「う……う……。」
負けるかも知れない。自分を励ましてくれそうなクイントゥスやプロデウス、兄やオタキリウスはこの場にいない。下手をすれば、全員殺されたかもしれない。寂しい。苦しい。悲しい。感情が、暴走する。思いが、渦巻く。その次の瞬間、ドゥルーススから信じられないほどの殺気が放たれた。
「う゛……う゛う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
黒い馬に乗った貴族の男の鎗が、ゲトリクスに向けて繰り出された。今までよりも、はるかに重い一撃だ。盾で防いだはいいが、防いだ盾に罅割れが走った。そのまま続けて同じ位置に穂先が激突し、盾が破壊される。
「なっ……!」
「ああああああ……う゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ!」
ドゥルーススは狂気状態に移行してしまった。頭が沸騰する感覚に覆われ、目の前が真っ赤になる。理性が働かない。目の前の憎い蛮族を殺す。それが彼の頭にある、唯一のものだった。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す……コロロロロロロロロロロロ!」
押していたとは言えないまでも、有利に戦いを進めていたはずのゲトリクスには信じられない状況だった。ゲトリクスの方が押されている。狂気を含んだ穂先をかわしたはずなのに、スケイルメイルの金属板が弾け飛んでいく。裏地の革が破れて血が滲んだ。
「むうっ……!」
鎗の柄がぶつかり合い、互いに弾かれて仰け反った。だが、先ほどまでなら体勢を立て直すのはゲトリクスの方が早かったというのに、今度はドゥルーススの方が早い。立て直す勢いを乗せて鎗をゲトリクスに向けて投擲した。
「むがあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
勢いに任せて投げつけられた鎗は、ゲトリクスの鎗にぶつかってお互いに砕けた。そのまま素早くスパタを抜き払い、黒馬を加速させて突進する。だが、狂気状態では全身の筋肉のリミッターが解除されているのと同じ状態であるがために、信じられない力は発揮できても冷静な判断力を奪われる。勢いこそ凄まじいが、隙だらけだった。スパタを振り上げた瞬間、ゲトリクスに詰め寄られた。
「そこだ! もらった!」
だが、ドゥルーススの体勢が大きく傾いだ。ドゥルーススの愛馬の足元に、カラスがいたのが原因だ。戦場の死体を漁りに来たらしいが、気が早すぎたようだ。危うくドゥルーススの馬が激突する前に飛び立ち、それに驚いた馬が手綱捌きを無視して動いたのだろう。
「うっ、しまっ……!」
ゲトリクスにとっては、好機から一転して危機に突入したことになった。いや、命取りとするべきかも知れない。剣を構え損ねたゲトリクスに、容赦なくドゥルーススのスパタが振り下ろされ、血が飛び散った。
「がはっ……!」
騎兵剣にべったりと付いた血を見たドゥルーススに、少しずつ幼さが戻っていく。彼は緊張が解けた表情で言葉を漏らした。
「カラスに……助けられたのか……。」
狂気から醒めたドゥルーススは、急ぎ味方の下に戻るべく、馬を急がせる。ガリア前衛の散兵隊が、ドゥルーススに向けて槍を投げ始めた。自分たちの副官の敵討ちということもあるだろうが、カラスに助けられたのなら仕切り直しにしてもいいではないか、という意味で怒っているのだった。
「勝負なんて、そんなものだと思うけどな……。」
軽くぼやきながらも攻撃を悉くかわし、自分が率いているローマ本軍の指揮を始める。同時に、フラウィウスとの連絡も欠かさないように護衛騎兵たちに指示を下した。
「市民哨兵団は河岸付近まで前進させて! 絶対に渡河させないように。ハスタティ隊は指示があるまで待機! その場から離れさせないように厳命して。弓箭兵隊は敵の散兵を火矢で攻撃。できるだけ間隔を空けながら撃たせて。矢をできるだけ切らさないように。それから、フラウィウス殿に連絡を。『準備は整えています、そちらも作戦通り攻撃してください。』とね。」

プロデウスとデキムスは、息を切らして森を抜けようと、足をフル回転させるローマ兵を率いていた。丘の方にあるはずのアスクルムを目指し、彼らは走る。今度は森の中でテッサリア騎兵も追いかけづらいらしく、接近してこない。だが、今度はクレタ弓兵にロードス投石兵、ペルタスタイなどの飛び道具部隊と、木々の枝を薙ぎ払いながら無理やり突進してくる象が追ってくる。
「はぁ……はぁ……たっ、隊長、も……無理です……!」
「走れ! 何も考えるな!」
だが、そのハスタティは戦い続けていた疲れから、足を滑らせた。続いて聞こえた悲鳴は、どうやら象に踏み潰されたためらしい。目を瞑りたい思いになったが、主席百人隊長としてそれは許されない。
「急げ! もうすぐオタキリウス殿が助けてくれる!」
プロデウスの後方をデキムスも走る。人間が破裂する姿など見たくも無かったが、直に目の当たりにして吐きたくなった。だが、これをプロデウスが断腸の思いでいるだろうことを考えると、泣き言など言いたくなかった。
「とっとと走れ! 足を止めたら死ぬぞ、脚なんか壊れてもいいだろ、死にたくなかったらな! 敵さんは容赦してくんねえからな!」
木々の合間を縫い、象の背に乗った兵士から放たれた矢が、デキムスの足元に刺さる。危ういところで危険を回避した平民出身の百人隊長は、抑えていた思いを爆発させた。
「ちっくしょう、サムニウムのオタキリウス! うちの隊長と仲がいいんだろ、とっとと助けに来いよ!」
デキムスも、「ローマのために」のほかに「レス・プブリカのために」を口にした一人である。だが、彼は本心から言ったというよりはサムニウムの人間を刺激したくなかったから、に近い。故に、フラストレーションも溜まる。爆発させたのは当然だった。
そのときだった。木陰に隠れていたサムニウムのウェリティスが姿を現した。ついにサムニウム射撃部隊と合流できたのだった。彼らの先頭に立つのは、紛れも無くオタキリウスである。彼は決然と指揮を下した。
「ウェリティス、木の陰から象を攻撃せよ! 姿をできるだけ隠しておけ! 弓箭兵隊、追撃に来たクレタ弓兵にサムニウムの森の恐ろしさを教えてやれ! 射撃開始!」
木の陰からピラが放たれ、象にぶつかる。一本では効果が薄くとも、十本、二十本が束になって放たれれば分厚い皮膚とて耐えられない。そこここで悲鳴を上げるのは、今度は象の方だった。その中を、木々の合間を縫って矢が放たれた。今度はローマ側からだ。足や胸を押さえて地面に転がるのは、クレタやロードスの傭兵たちだ。
「騎兵団、突撃せよ!」
射撃部隊が弱ったと見たオタキリウスは、サムニウムのエクイテス予備隊と補助軍騎兵を投入する。彼はデキムスの前で軽く走らせた馬を止めた。
「遅れてすまない。だが、助けに来たのでな、容赦してくれ。」
嫌味も怒りも無いその言葉に、デキムスは土下座したい気分になった。とはいえ、部下の手前もある。とりあえずは謝罪することにした。
「申し訳ない、勝手なことを口にしてしまった。」
「いや、言いたい気分はわかる。……私は今、ティベリウス殿の言葉で燃えている。挽回のため、ローマとサムニウムのため、全力で戦わせてもらおう!」
オタキリウスが燃えている姿など、デキムスは初めて見る。プロデウスにとっては11年振りだが、それは敵としてだった。あの山で見せた少年のころの熱さが、オタキリウスの中に呼び覚まされたらしい。彼も護衛騎兵を駆ってエペイロス射撃部隊の掃討にかかる。
「ティベリウス殿は私の思いを受け取ってくれた。彼の気持ちに応えねば! このままではスキピオ家のクリエンテスとして、サムニウムの人間として悖る!」

パドゥス河ではローマの矢を受けて数を減らし、投げ槍も尽きたガリア散兵がローマ軍に向けて突進を始めていた。この突進はガリアの将軍の意向を無視していたが、彼らにしてみれば副将の仇討ちである。将軍の指示など知ったことではなかった。
それを見て取ったドゥルーススは投げ槍を受ける役目を果たしてくれた市民哨兵団、そしてハスタティに指示を送る。
「市民哨兵は撤退! トリアリィの後ろに下がって休憩させて。全ハスタティに任意射撃と防御体勢の指示を。渡河した敵から順に撃破させる!」
続けて、ウェリティスと弓箭兵隊にも指示を放った。その様子は普段の彼、そして過去の彼を知る人間からは到底信じられないような滑らかさと鮮やかさだった。
「ウェリティスはハスタティの背後で待機! 指示あるまで射撃はさせないように。弓箭兵隊は散兵を止めに来た将軍含む騎兵団に火矢を浴びせて。これで敵の士気を削り倒す! フラウィウス殿にも連絡を。『射撃部隊の攻撃を後方の歩兵部隊に向けるように』とね。」
このガリア歩兵団は鎗を構えた戦士たちと、剣技に長けた剣士部隊で編成されていた。とてもではないが、ローマ歩兵が真っ向からぶつかり合えばあっさりこちらが粉砕される数である。だが、ドゥルーススは河、そして橋という地形を利用して身動きできない細長い陣形を強制させ、飛び道具で各個撃破しようと企んでいたのである。
しかも、ここは浅瀬だ。浅いとはいえ水に飛び込むのだから、確実に疲労する。ただでさえガリア軍兵は最初の押しが強いだけなのだから、勢いを殺してしまえばただの的である。その上、ローマ軍の強みは粘り強さにある。さらには右翼を支えるフラウィウスは市民から、特に若者から人気がある。この場で逃げるローマ兵など、一人もいるはずが無い。負ける要素など、ない。
ドゥルーススの連絡を受けたフラウィウスも動き出す。市民から人気のある男は、配下のハスタティに指示を送った。
「ピルム放て! 盾を奪ってしまうのだ!」
「うおおおおお!」
若き兵士たちが放った重い槍が、ガリア兵の盾を、肩を、膝を、頭を貫いた。パドゥス河に血が流れた。河岸の草が、赤く染まる。ガリア散兵は後ろから味方の歩兵が接近して身動きが取れない。前方に突き進むしかないが、彼らは盾を失った上に、疲れ始めている。この状況で体力を温存していたローマ兵に挑むなど、自殺行為だ。一人が逃げ、二人が逃げ、五人が逃げた。後は雪崩のように陣形が崩れ去るだけだった。それを見逃すほど、ドゥルーススは甘くなかった。
「通常の矢で一斉掃射! 一兵でも多く仕留めて!」
ガリアの陣形はもう混乱状態だ。逃げようとする散兵と突進しようとする歩兵が入り乱れ、どこに誰がいるのかすら把握できない状況で、互いにぶつかり合っては別々の方向に走ろうとする。この密度で飛び道具である。避けられるはずも無かった。歩兵も散兵も、のべつ幕なしに射殺されていく。
これに怒ったガリア歩兵団が、ハスタティに迫る。数は減らしたとはいえ、まだ全ハスタティの二倍はいる。ドゥルーススはフラウィウスとハスタティ、そしてユリウス軍のトリアリィに合図を送った。
「『屠殺場の門を開け!』」
その言葉を聞いた瞬間、一斉にハスタティたちが横に逃げた。いや、逃げたのではない。ローマ本軍とユリウス家のハスタティは防御体勢のまま、扉が開くようにそれぞれ左翼と右翼にずれて、敵の正面にトリアリィが展開するように移動したのだ。ハスタティたちはそのままガリア兵が進めないように両脇に「柵」となって立ち塞がる。トリアリィはそのまま前進して、鎗でガリア兵を攻撃し始めた。そのトリアリィの後方から保険にと息を整えた市民哨兵が前進する。
ガリア兵は、後方以外を包囲されたことになる。今度は立ち塞がる存在が無くとも、逃げられるわけが無い。ユリウス家の弓箭兵隊が、後方の歩兵部隊に対して、集中的に矢を浴びせているからだ。これで逃げようものなら先程の大混乱の二の舞だ。この半包囲を抜け出したくば、目の前のローマ兵を打ち倒すしかないが、ハスタティの隙間を縫ってウェリティスがピラを放ち始めた。これは戦いというより狩りか、でなければ屠殺でしかなかった。
「後は粘るだけ! 生き残ることを考えて! 被害を極力抑えてピュロスに備えなければいけない!」
これは前哨戦でしかない。万が一、ローマがアスクルムで壊滅していれば、自分たちが戦うしかない。ドゥルーススの頭には、ピュロスと戦うときのことがインプットされていた。とはいえ、目の前の状況も忘れるわけにもいかない。完全にガリアを打ち破る。打ち破って、しばらくにしても前進する気力を奪うべきだ。彼はヒューマンファクターも計算に入れるべきと考えていたので、やる気を奪うことが重要であることを認識していた。
「ポンピリウス軍団長、歩兵団が逃げていきます!」
護衛騎兵の一人が告げた。ドゥルーススは「蕾」を意味する長剣、スパタを振り上げて叫んだ。
「追撃開始! ガリア騎兵団が来るなら、そちらを優先して排除! 突撃!」

アスクルムでは、血を滾らせたオタキリウスとクイントゥス、そしてティベリウスが互いをテッサリア騎兵から守りながら顔を合わせていた。
「よく無事でいてくれた。このままアスクルムに逃げるぞ!」
クイントゥスはそう口にしたが、燃えている男は反論する。
「しかし、このままエペイロスを見逃すのも。幸い、まだサムニウム散兵団と補助軍騎兵は無傷です。追撃の許可を。」
それでもティベリウスは引き下がらない。彼にしてみれば、全滅せずに撤退できるだけでも十分だった。
「追撃させれば、また誘い出されて全滅させられるかもしれない。私はローマの人間もサムニウムの人間も区別する気はない。同じ軍で戦っている以上、被害を増やしたいとは思わんのでな。撤退だ。」
「しかし……。」
「文句を言う人間がいるなら、私に言え。助けられる範囲で助ける。それに、貴公の働きで多くのローマの者が助かったのだ。ここで引き上げてくれれば、貴公への市民冠の授与を元老院に提案する。」
市民冠の授与を元老院に提案する、ということは、元老院入りを保障させてみせる、という意味だ。ローマのために尽くす優れた人間ならば、議員にするのがこの当時のローマだった。さすがにこれにはオタキリウスも揺れた。議員になって名誉を掴みたいのではない。ローマの元老院議員になれれば、サムニウムの人間に多少は有利に働くようにはできるからだ。結局、彼は元老院入りの方に傾いた。
「……わかりました。撤退します。」
それぞれに苦い気持ちを抑えながら、クイントゥスもティベリウスもオタキリウスも、纏わりつくように襲ってきたテッサリア騎兵を撃破しながらアスクルムへと逃げていく。勝者となったピュロスも、苦い思いでいたのは同じだった。
「戦力が……予想以上に削られた……。」
勝つことには勝った。だが、自分にも打撃が大きければ、勝利など割に合わない。
「これ以上ローマと戦争をすれば、負ける。ターレスの人間にも忠告すべきだろうな。」
エペイロスは海を隔てているため、戦力の補充がままならないのは当然だが、ローマの動員人数も異常だった。何しろ、同等の規模の国家で比較しても六倍近くの動員人数を誇るのがローマである。これは制覇した土地の維持に自国民を割く必要が無いからだ。だが、ギリシアもカルタゴも、土地の維持に兵力を取られてしまう。これこそがローマの恐ろしさ、「同化」によるものであることに、ピュロスは気づけなかった。
「地の底から湧いてくるとでもいうのか……。」
戦術の天才と謳われる男は、苦いものを噛み殺していた。

イタリア北方では、ユリウス家とローマ本軍の連合軍が完全勝利を収めていた。兵士の犠牲は、ゼロ。数人が怪我をした程度であった。これで自分たちの数倍はいたガリアを打ち破ったのだから、英雄的勝利以外の何者でもない。それでも、今度こそ死体を漁りに来たカラスの集団を見遣るドゥルーススの表情は優れなかった。
「もっと……もっと抑えなければ。自分を抑えて……冷静にならなきゃ。」
彼もまた、苦さを隠せなかった。自分から決闘を挑んだというのに、負けかけた挙句に狂気を爆発させ、カラスに助けられるという失態を犯した。彼は、自分が許せなかった。
「貴方は十分に戦いましたとも。こうして被害は無かったのです。喜ぶべきでしょう。」
「……。」
まだ表情が晴れない。どうしても駄目らしい。ならば、とフラウィウスは言葉を紡いだ。
「そういえば、貴方の兄上には『ネロ』という綽名がありましたな。しかし、貴方にはまだないようだ。ならば、これから綽名を『コルウス』にしてはいかがか?」
「……コルウス。」
フラウィウスが提案したコグノーメン、つまりは綽名である「コルウス」が意味するのは、「カラス」である。ドゥルーススは戦場のあちこちでギャアギャアと騒ぐ黒い鳥の集団と、カラスを追い払いながら死体撤去を行う兵士たちから目を離さぬまま、ぼんやりと応えただけだった。それでもフラウィウスは続けた。
「カラスに助けられたということもありますが、その頭の回転の速さは、まるでカラスのようだ。それに、黒い馬にも乗っており、鳥のように速く敵を打ちのめしている。これ以上適切な名はないと思いますが?」
少し考えたらしいドゥルーススだったが、彼はそれを受けることにしたらしい。普段の彼ならば幼い笑みを浮かべたことだろうが、今の彼にはその余裕すらないらしい。硬い表情のまま、口を開いた。
「……貴方と兵士たちが望むのであれば、僕はそれを受けましょう。」

この日、苦い思いを抱える大勢の人間を生み出すこととなった。この苦さこそが、この世界を変えることになるとは誰もが思いもしないことだった。ただ、彼らは戦った。戦った結果が、目の前にある。それをいかに活用するか。それは本人次第である。
この面では、ローマ人の方が上手だったのだろう。それは、数年後に現れることになる。
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