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補助軍兵A氏作 アイマス・トータルウォー支援SS「カルタゴの淡雪」

補助軍兵Aさんよりなんと「アイマス・トータルウォー」の支援SSを頂きました!
ありがとうございますorz

本当に作者冥利に尽きますorz

こんな素晴らしいものは公開すべき。


では、どうぞ!


カルタゴの淡雪


プロローグ


 その男はやや暗めの視界の向こうに見える、青い敵軍を見据えていた。
「……。」
 敵は、ローマのカルタゴ方面軍スキピオ家第二軍団。敵将の名はガイウス・スキピオだ。情報によれば、物腰柔らかだが冷徹で、効果が期待できれば手段を選ばないとのことだ。それだけではない。この男はタプソスに住むカルタゴの民を虐殺した張本人だ。カルタゴ本国には絶対に通してはならない。カルタゴを守るのが、そしてあの心優しい内政官を守るのが自分の役目だ。
「…………。」
 あの優しい内政官は泣いていた。たとえ対立していたとはいえ、撃将ブルスの死は自分でも不思議なくらい悲しかった。自分ですらこれである。しかも悲しいことに、カルタゴとタプソスの間の街道を整備したのは彼女である。その街道を踏みしめてローマ軍がカルタゴに迫ってきた。軍が使うことに悲しみを覚えた彼女だ。カルタゴを滅ぼすために来た軍団が使っているとなれば、余計に無念であろう。
カルタゴの滅亡は肉体的にも精神的にも彼女を生かしてはおかないだろう。だが、敵の女最高司令官は何を思ったのか、内政官を生かして返した。無許可で出て行ったのだから、正式な使者ではないことはわかったはずである。何故返したのかは全くの謎だが、何よりも彼には嬉しかった。
「ボミルカル将軍! 敵散兵が後退! 敵軽装主力兵とリビア槍兵が激突します!」
 横から副官の声が聞こえてくる。彼は馬上で愛用の剣を振りかざし、切っ先を敵将ガイウスがいるであろう、ローマ将軍護衛兵団に向けた。
 彼の名はボミルカル。仮面を外さぬ、「沈黙将軍」と謳われる男だった。


1 白の少女


 ハンノ・ボミルカルは不機嫌そうに靴を鳴らしていた。様々な苦難に耐え、将軍になったばかりだというのに、最初の仕事が護衛というのは不服だった。護衛自体が不満なのではない。対象が「王」という通称が与えられたカルタゴ執政官ならまだいい。彼が守らねばならない相手というのがまだ幼い少女で、しかも貴族だというのだからたまったものではない。それでいて、末席といえども内政官なのだ。これが不満の種だ。
「……。」
 ろくに実績もないのに何故このような椅子に座っているのだ、自分とて苦労はしたのに、と彼は思った。世襲で内政官の地位に就いたという話だったが、世襲ほど世代交代で腐敗が進行するものはない。少なくとも、彼が直に見たカルタゴ貴族は腐りきっていた。
「ボミルカル。」
 どこか頼りない雰囲気だが、人の良さそうな顔立ちの壮年の男が声をかけた。ハスドルバル、つまりカルタゴの「王」だった。
「……。」
「就任早々すまんの。だが、雪歩・萩原は代々続く農耕と土木の名門の者。お主らイベリア派と揉めてもおらんことだし、勘弁してくれんか。」
 眉を八の字にして言うその姿に威厳も何もないが、悪い人間ではない。それなりに大きな権限を持っているにも関わらず、あくまで調整者に徹しようとする彼を、ボミルカルは慕っていた。
そもそも、彼は自分を抜擢した人物でもあった。二十年近く前には流血沙汰まで起こしたといわれる、国内派とイベリア派の国論分立状況で、明らかにイベリア派である自分を登用するのは勇気を要したことだろう。優柔不断ではあっても、いざという時はそれなりの判断はしてくれる。無能では決してありえなかった。
「ボミルカル、あまり駄々をこねて王を困らせるな。」
 自信に溢れんばかりの男がハスドルバルの後ろから現れた。船から降りたばかりなのか、軍装を解いていない。黒々とした長髪をなびかせ、伸ばした髭は整えられていた。その体躯は堂々としており、やや猫背のハスドルバルと並ぶとどちらが国家元首かわからなくなる。
イベリア総督のハンニバルだった。彼の父ハミルカル・バルカはシチリア攻略でローマ軍に挑んだものの、最終的には敗退した。その後イベリア総督として生涯を終えたが、その無念はこり息子に受け継がれていた。彼はローマへの復讐のために計略の才を研鑽し続け、カルタゴ随一の名将と呼ばれていた。
「おお、ハンニバル。イベリアの様子はどうじゃ?」
 ハンニバルはハスドルバルに向き直り、報告を行う。
「は、一先ずはコルドバの都市機能は向上しております。軍備はイベリア歩兵と円盾騎兵、それに傭兵を集めて戦力を拡充させておりますので、これだけあればイベリアの東岸は早いうちにカルタゴへと組み込めましょう。」
「うむ、これで交易路が活性化するのう。」
 笑みを浮かべて何度も頷くハスドルバルを尻目に、ハンニバルはまだ健在の両目をボミルカルに向けた。
「ボミルカル、不服なのはわかる。だが、貴族とて全てが腐っているのではない。集団の中で少しずつ腐敗していくのだ。希望を捨てるべきではない。」
「……。」
「わかっているつもり、か。だが、それでも感覚が拒否しているのだろう。あまり表に出すな。仮面を被ろうが声を出さなかろうが、感情が表に出るお前には難しいかも知れんが。露骨に不快感を与えれば、相手はそれだけでも腐るかも知れんぞ。気をつけろ、お前にかかっているといってもいい。」
 余計なプレッシャーをかけないでくれ、とボミルカルは思ったが、仕事は仕事である。何事かを話しはじめたハンニバルとハスドルバルに一礼してから背を向け、議会堂から出ると、早速愛馬を引かせて将軍随伴騎兵とともに護衛対象の屋敷に向かった。

 ボミルカルは目的地である屋敷の前で馬を止めた。随伴兵もそれに倣い、全員で下馬した。この、大きくはあるが華美ではない屋敷を見遣ったボミルカルは、ただの貴族ではないらしいな、と思いながら取り次ぎを頼んだ。さすがにこの金色に輝く仮面である。屋敷の者も面食らっただろう。しかし、何とか気を取り直してくれたらしい。すぐに護衛対象が姿を現した。
「あ……あの、その……。」
 深窓の令嬢とはこういうものなのだろう、と仮面の下でボミルカルは思った。日差しの強いカルタゴに居を構えているにしては色白で、自分の仮面を見る可愛らしい顔は不安に溢れている。おそらくは家族以外の男と喋ったことすらないだろう。
「あの、雪歩・萩原、です。あ……あなたは……?」
 沈黙を守るボミルカルに代わり、護衛兵の一人が声をかけた。
「この方はあなたの護衛を王より任ぜられました、ボミルカル将軍です。どうぞ、よろしくお願いします。」
「……。」
 ボミルカルは軽く会釈をした。雪歩と名乗った少女もおずおずと頭を下げる。
「……。……?」
 彼女には何が言いたいのかわからないので、首を傾げるばかりだ。慌てて別の護衛兵が口を開く。
「あ、今日の予定は? どちらにいらっしゃるのです? 我らはどこにでも参りましょう。」
「あのっ……その……。」
 だが、こちらも男が苦手なのか押し黙ってしまう。こちらも代わりに執事が予定を告げる。
「本日は萩原家の茶畑の視察と、農園の指導となっております。我らがご案内しましょう。」
 結局自分で説明できなかった、と雪歩はがっくりと肩を落としていた。
「はああ……やっぱり駄目駄目ですぅ……。私、おじいちゃんみたいな内政官になんかなれないです……。穴掘って埋まってますぅ……。」
「……。」
 自分から喋りださずに代理人同士で会話をする奇妙な二人は、こうして出会った。

 カルタゴは肥沃な大地が広がっているとはいえ、南方に砂漠が迫っている。しかも、地図の上では赤道に程近い。茶は普通、風通しがよく、霧が発生する程度の湿気があり、ある程度気温が低く、尚且つ霜が茶葉に付着せず、日当たり自体も微妙な状況でなければならないという、繊細な温帯性の植物である。春夏秋冬よりは雨季乾季の区分の方が適切かと思われる、どちらかと言えば乱暴な気候のカルタゴでは難しい。
 そこでまず先祖代々で品種改良を行い、何とかカルタゴの気候で生育できるように調整して、その上で栽培環境を多湿な温帯に近づけるようにした。具体的には、次の二つの方策を用いた。
一つは、サイフォンの原理を用いた簡易的な水道を作り、この水の出口を霧吹き状にすることで、粒径こそ荒いが擬似的な霧を発生させることで湿気と気温を調整する。もう一つは農業用水路に水車を設置し、この動力を用いて風車を作って風通しをよくした。霧吹き自体は細い金属管の中央を熱して引き伸ばし、管が途中から細くなるようにすれば作れないことはない。とはいえ、相当な職人芸を要するため、手間がかかる。風車も歯車の調整が非常に面倒であった。どちらも並大抵の資産では作れなかった。
「……。」
 これは金持ちの道楽だな、とボミルカルは思った。しかもこの木自体は使わず、葉も新芽をだけを摘み取り、乾燥させてからその煮汁を飲むという。無駄にも程がある。だが。
「いやあ、内政官。ここのお陰で、随分とこの辺りは涼しいですな。暑い日は茶畑に逃げ込ませてもらってます。」
 近隣住民だった。農作業の途中なのか、身につけているのはあちこちが欠けた鍬と、煤けた衣だった。だが、その顔は溌剌としている。そういえばこの辺りは涼しいな、とボミルカルは考えながら様子を窺う。
「あ…………はい。よかったです。今度、皆でピクニックでも……その、どうぞ。」
 雪歩は花が開くように笑みを零した。それにつられる様にその住民も笑う。
「はい、ありがとうございます。」
 あの子はあんな風に笑うのか、と考えたその時だった。雪歩がこちらに向き直っていた。
「あの……私の顔に何かついてますか……?」
 どきりとしたボミルカルは、周囲の様子を警戒する振りをして視線を外した。
「はうう……やっぱり私って駄目なのかなあ……。」

 次は農地だという。馬を走らせること20分で、彼女の一族が経営しているという農園にたどり着いた。
「ええと、今日は土壌改良……。」
 雪歩は日除けの頭巾を被ると、鞄からパピルスの巻物を取り出して軽く読み、随行している執事にあれこれ材料を持ってくるように頼んだ。続けてタライにそれらを次々と入れて、シャベルを使って混ぜ始めた。どうやら肥料か何からしい。
「次は骨粉……ええと、それから……じも゛ごえ゛……。」
 強烈な匂いのする下肥を放り込んでいる。さすがに周囲が見かねたのか、その作業を変わろうとするが、頑として交代しようとしない。
「これは……私がしないと。私の……仕事だから……。」
 これはただの貴族ではない、と仮面の下で彼は頷く。いや、と彼は考え直した。これは本来貴族のあるべき姿だ、と。どんな物事であれ、率先して先頭に立ち、尚且つそれを持続しようとする意志を持つことは、貴族やリーダーに求められる資質の一つである。少なくとも彼女は戦場で活躍するタイプではないが、戦いは別に戦場だけではない。議論をぶつけるのも戦いなら、農作業で汗を流すのも戦いである。土と植物、水や太陽、そして天候との戦いだ。ある意味兵士相手より戦いにくい。
「……。」
貴族の多くはこれを笑うかもしれない。だが、国の基盤は第一次産業にある。彼女はそれを理解しているのだろう、とボミルカルは思った。
「よいしょ……よいしょ……ふぅ。」
 遂には周囲の人間がシャベルから雪歩を引き剥がしてしまった。仕方なく、だが申し訳なさそうに彼女は材料とその量を指定していく。今まで護衛を嫌がっていた自分に恥じながら、何となく嬉しくなったボミルカルは後ろから彼女の様子を窺うことにした。
「それから、ちょっと少ないけどお茶殻を。……はい、土に馴染んでいい感じになるんです。それから……消石灰の粉末を……はわっ!?」
 後ろに立っていたボミルカルに驚いた雪歩は、何かに蹴躓いたのかそのまま倒れかけ、あわや下肥を含む土壌改良剤に顔を突っ込む、というところで誰かに襟首を掴まれた。そのまま強い力で引き上げられ、何とか体勢を立て直すことができた。振り返ると、引っ張り上げた体勢のままのボミルカルがいた。
「あ……もしかして……倒れないようにして……くれたんですか……?」
「……。」
 その沈黙は肯定そのものといえた。彼女は慌ててボミルカルに向かって頭を下げた。
「あ、あの、ごめんなさい!」
「……?」
 何故謝る、という沈黙を漂わせるボミルカルに、雪歩はさらに慌しく言葉を紡ごうとする。
「あの、私勘違いしてました。私のこと嫌なのかなって思ってて、私もそのお面が怖かったり黙っててよくわかんなかったりとかで…………ああああ、私ってまた失礼なことを! ごめんなさい、ごめんなさい!」
 自分の仮面が不気味なのは仕方ないのだが、と彼は思いながら、軽く頭を横に振った。
「えっ……?」
 続けて彼は雪歩が入れようとしていた消石灰を、籠手で覆われた手で掴み、土壌改良剤に加えていく。協力しよう、とでも言うように。
「あのっ、手伝ってくれるんですか?」
「……。」
 仮面を彼女の方向に向けたが、すぐに土壌改良剤の方に向き直って消石灰を加えようとする。しかし。
「あ……あのぅ……それ、手、火傷しますよ……?」
 消石灰を後世の化学での物質名に直すと、水酸化カルシウムであり、水に溶けるとアルカリ性を示す。こんなものが手に付着すれば手のタンパク質が分解されてしまう。最初は痒みから始まり、徐々に皮膚を侵していく。そして重度になると火傷のようになってしまう、というわけだ。
「……!」
「ここに水があります! これで洗って!」
 ボミルカルは慌てて籠手を外して、受け取った水筒の水で手を洗う。それでも雪歩は慌てたように続けて言う。
「指の間! そういうとこに残りやすいです!」
 確かに痒みが指の股に残っている。何とか洗ってほっと一息つくと、雪歩は噴き出しそうな顔をしていた。
「……。」
「うふふふふ……ふふふふふふ。」
 堪えきれなくなったのか、彼女はおかしそうに笑い出す。周囲の者達もつられて笑い出した。彼は、参ったな、と兜の奥に手を突っ込んで頭を掻いた。

 結局、彼は護衛に徹することにしたらしい。黙って雪歩の近くに立つことにした。それにしても、と彼は思った。
「…………。」
 触ったら火傷するようなものなのに、一体何のために消石灰を入れるのだろう、と考えていると、雪歩がそれに答えるように言った。
「あ、あの消石灰はですね、おじいちゃんが言ってたんですけど、土が酸っぱくならないようにするためなんだそうです。酸っぱくなりすぎると作物が育たなくなるって。」
「……。」
「あれで酸っぱくなるのが止まるのかって? ええ、ちゃんと確かめたって言ってました。」
「……。………………?」
 ボミルカルはぴくりと何かに反応したかのように雪歩の方に顔を向けた。
「何で意思疎通できてるのかって? そうですね、何ででしょう?」
「…………。」
「それにどもらなくなってるって? あれ、本当です。あ、もしかしてボミルカルさんのお陰じゃないですか? さっき緊張をほぐしてくれたから……。」
「……。」
「私、男の人怖かったですけど、ボミルカルさんのことは大丈夫になったみたいです。あの、これからもよろしくお願いします。」
 仮面の奥でボミルカルは笑った。きっとこの子がいればカルタゴは繁栄するはずだ、だから守らなければならない、と。
「内政官になったんだもの……内向的な自分を変えなきゃ……そう決めたもの……。」

 破滅の足音が、すぐ傍まで近づいているとも知らずに。


2 国内派、イベリア派


 あれから数ヶ月の間、ボミルカルはカルタゴ練兵所での軍整備の任務に充てられていた。彼は仕事をしながら、あの内政官の少女のことを思い返す毎日を送っている。自分にはともかく、まだ他の男相手では言葉が詰まっていた。あれで大丈夫なのか、と。
 そんなある日のことだ。練兵所で門番の指揮をしていた配下の兵が走ってやってくる。自分の目の前で片膝をついた。報告らしい。
「将軍、王がお呼びです。」
「…………。」
「はい、訓練の指揮は私が引き継ぎましょう。」
「……。」
「いえ、これが任務ですから。」
 練兵所から馬に乗って議会堂に到着すると、すぐさま馬を預けて中に入った。ボミルカルは議会堂の廊下を歩きながら思った。あの直向きさが眩しい少女とまた会ってみたい、と。
「……。」
 考えながら歩いていたせいか、前方に誰がいるのかが全く把握できていなかったらしい。その人物と正面衝突してしまった。
「貴様、どこに目をつけている! 仮面を被っていようと前は見えるだろうに!」
 短く切った針金のような髭が顔の下半分を覆っており、鋭くも大きくぎょろついた目がこちらを睨んでいる。この顔が筋肉質の鍛え上げられた体に載っているのだから、誰がどう見ても軍人以外ありえない。
 名はブルスといい、撃将の異名を持つ男だ。ハンニバルからは猪と呼ばれてはいるが、頭の回転自体は遅くなかった。それでいて自分から敵陣に切り込んでいく勇将である。つい最近でも、砂漠の盗賊団相手の戦闘でも先頭を切って突撃して壊滅させており、そのためか正規軍兵からは人気があった。
「それとも、対立する派閥の相手に払う礼はない、そういうことか?」
「……。」
「ふん、どうだか。」
 不機嫌そうに議会堂の出口にブルスは歩いて行く。彼は国内派のトップであり、同時に正規軍兵を主軸にすべしと主張し続けてきた男だった。カルタゴの現状は傭兵主体であり、何か戦いがある度に雇うことで凌いできた。それを彼は国民主体の軍団にしようとしている。正確には元に戻そうということだが、過去の敗北からか軽視される傾向にある。
「……。」
 ブルスの言うことも間違ってはいないのだが、とボミルカルは思う。だが、現状ではなり手が少ないため、どうしても給料を上げるという方法を用いざるを得なくなってしまう。そのせいで編成と維持に費用がかかり、これが財政を圧迫し始めていた。
経済に重点をおくハスドルバルは、関税を得るために港湾機構を拡張したいと考えていた。しかし、金がない。そこで彼は軍縮しようとしていた。あのブルスの様子からすると軍縮に抗議していたのだろう。財政をどうする気だ、しばらく戦いらしい戦いはないのに、とボミルカルは思った。

 ボミルカルはハスドルバルのいる執務室に通され、中に歩を進める。既に先客がいた。ハンニバル、それに彼が会いたいと思っていた少女だ。
「……。」
「おお、来てくれたか。お前にはまた明日から雪歩の護衛をしてもらいたい。頼めるかの。」
 ボミルカルは軽く頷いた。ほっとしたのはハスドルバルよりも雪歩よりも、むしろハンニバルだった。理由はわかっている。最初嫌がっていたのを知っているからだ。それを知ってボミルカルは仮面の奥で苦笑いする。
「まあ、雪歩も一仕事終えて帰ってきたばかりだしの。市内の道路舗装だったか。いちおー、わしも今日の仕事は終えたところじゃし、雪歩が持ってきたお茶とやらでも飲ませてもらおうと思っておったところじゃ。どうじゃ、お主も。」
「……。」
 あの手間がかかっているものか、と彼は思った。横では雪歩が陶器の入れ物に乾燥した緑色の葉を入れている。ボミルカルはその様子を見ることにした。薬缶に入ったお湯を注ぎ、陶器の入れ物に蓋をして軽く揺すっている。
「……。」
「先に急須をお湯で暖めておきましたから……いい味になるはずですよ。」
 内政官の少女はそう言いながら、行ったり来たりを繰り返して陶製のカップに緑色の液体を注いでいく。その表情はとても生き生きとしていた。
「……。」
 雪歩がハスドルバルにカップを渡している。ハスドルバルもにっこりとカップを受け取った。その足で自分の方に彼女が来る。
「はい、ボミルカルさんの分です。」
 彼女はカップの一つをボミルカルに渡した。続けてハンニバルにも渡し、急須と呼んだ陶器の入れ物の茶葉を処理し始めた。ハンニバルは液面を見ながら呟く。
「……本当にこれを飲むのか。この、草のような匂いの緑色の液体を……。」
 ボミルカルも同感だったが、雪歩が見ている。それも、期待を込めたような目で、だ。
「……!」
 ボミルカルは大丈夫なのかこれ、と思いながら湯気を立てているお茶の水面を見つめていた。が、ままよ、と左手で仮面を持って少しばかりずらし、軽くお茶を飲んでみた。
「……。」
舌に触れた瞬間は苦いばかりだが、少しずつほのかな甘みがお茶の葉の緑の香りと共に、口いっぱいに広がる。これは美味しい、とボミルカルは誰にも見えない微笑を漏らした。
「……♪」
 彼はゆっくりと楽しむようにお茶を啜り始めた。ハスドルバルも、この繊細な味わいを楽しんでいるように見える。しかし、まだハンニバルは口をつけていない。
「……。」
「いや、これは飲めるのか……? 私にはそのようには……。」
「お主ともあろうものが何をしておるのか。このような美味しいものなのに。」
 その様子を察したのか、雪歩は慌てたように言葉を紡いだ。
「あっ……あのっ……無理しなくていいですから。ですから……その……。」
 そんなことを彼女に言われれば、余計に飲ませなければならないと思えてしまう。ハスドルバルも同じだったらしく、彼はハンニバルに歩み寄った。
「ほれほれ。飲まんか。手間がかかっているのだぞ?」
「しっ……しかし……。」
 やれやれという様子で、ハスドルバルはハンニバルの手からカップを取ってからボミルカルに命ずる。
「ボミルカル、ハンニバルを拘束してくれんかの。」
「……。」
 ボミルカルは言うが早いかハンニバルを羽交い絞めにしていた。
「こっ、こら! 何をするボミルカル!」
「……。」
 ハンニバルも抵抗はするが、ボミルカルが鍛え上げた腕で拘束しているので、ほとんど身動きが取れない。もがくばかりだ。
「美味しいから安心しろと言われたところで、この体勢では……冗談もほどほどに……ハスドルバル殿っ!」
「まあまあ。これも雪歩のためと思うて我慢してくれんか。のう?」
「……。」
「あのぅ……。」
 ハスドルバルハンニバルの口にカップの縁を押し付け、口に流し込んだ。抵抗はしていたが、少しずつ筋肉が弛緩していくのがボミルカルにはわかった。
「う、うむ……これは……美味しい……かもしれん……。」
 おとなしくなったと見たボミルカルは拘束を解き、ハンニバルの様子を窺う。つい先ほどまで拘束されていた本人も、今度は自分の手でカップを持って飲んでいる。
「……。」
「む……。飲まず嫌いはいかん、か。すまん、反省しよう。」
 あの名将ハンニバルも、この面々が相手では形無しらしい。午後の楽しいひと時が緩やかに過ぎていった。

 翌日、前のように屋敷の前で馬を止め、取次ぎを請うた。今度は屋敷の者もにこやかに取り次いでくれた。流石に二度目だ。それに、この間のこともある。印象は悪くないはずだ。
「すみません、お待たせしました。」
 雪歩が屋敷の奥から出てきた。今日はずた袋のような麻の作業着を身につけ、金属製の大きく庇の張り出しているヘルメットを被り、日除けの布を頬から後頭部にかけて覆っているという、なにやら戦にでも行くのかという重装備だ。
「……。」
「これですか? 今回はカルタゴとタプソスの間の街道整備のための調査なんですけど、場合によって岩を叩いたりしますから。その時の破片で怪我しないためのものです。工事のときは、いつもこんな格好ですよ。」
 愛らしい姿の少女には似つかわしくないが、怪我をしないためなら仕方ない。彼女は引いてこさせた馬に乗ると、風を肩で切りながら走らせた。これまた少女とは思えないほどの腕前だった。
「はっ!」
「…………!」
 これでは護衛の意味がないぞ、と思いながらも彼と彼の随伴騎兵、そして萩原一族の地質調査員たちが続く。
「……?」
 そういえば、あれほど内気だった彼女が、何故ああもアクティブになったのだろう、とボミルカルは思ったが、すぐに答えはわかった。擦れ違うカルタゴの住民たちの声が聞こえる。
「あのお嬢様、ほら、市内の舗装を担当していた内政官よ。」
「なるほど、あれが。歩きやすくなったよなあ。作業中はうるさいと思ってたけど、こりゃ便利だ。」
 普通なら、このような話題はあまり庶民の口の端に上らないものだが、カルタゴには遊興施設や娯楽のための書籍が極端に少なかった。そのため、本来なら話題にもならないはずのものが話題になってしまう。国内派とイベリア派のいがみ合いなど、国民の全員が知っていることだった。逆に、この程度のことまで話題にもなるのは利点ともいえるが。
「農業生産向上にも尽力してるってさ。飢え死にする人間も少なくなるだろうって話だぜ。」
「ありがたいことだ。あれが真の貴族ってやつなんだろうなあ。」
 彼は心の中で頷いた。確かにああも賞賛されれば嬉しくなる。嬉しくなれば、また頑張ろうと思う。それで、この仕事も成功させようと気持ちが逸っているのだろう。だが。
「……。」
 彼は馬を急がせ、雪歩の馬に追いつかせようとする。彼女の馬も速かったが、手綱捌きはやはり現役軍人のボミルカルの方が上だった。しばらくすると、すぐに馬を並べることができた。
「あ、ボミルカルさん。」
「……。」
「あ、その……急ぐなって? すみません、何も考えてなくて……。」
 彼女は馬の歩調を緩めさせた。ボミルカルもそれに合わせて減速させる。
「…………。」
「えっ……嬉しいのはわかるが、逸りすぎると焦りに代わる……ですか?」
「………………。」
「……そうですよね……もっと冷静にならないと……。」
 だからといって元の奥手に戻るのも問題があるが、と思いながらも彼は、少しだけ顔を引き締めて馬を駆る少女を見つめていた。

 どうやらタプソス側から調査と簡易的な工事を行うつもりらしい。タプソスはカルタゴのほぼ真南にあり、東に海を臨むカルタゴ第二の都市だ。このタプソスを統治しているのは、あの撃将ブルスである。このタプソスとカルタゴの間には河が流れており、橋もあるが、彼女はこれを含めて全線を改修するつもりらしい。
「一番岩盤が安定している場所を探してください。それから……できれば道路は真っ直ぐで。……はい、その方が疲れませんから。」
 この手の街道は街中を貫くように通すのが基本だ。となると、一度は中に入って内部の整備をしなければならない。とはいえ、道路整備はタプソス側にも伝わっているので問題はない。雪歩と調査員、それに護衛のボミルカルたちはタプソス市内に向かった。
「ここがタプソスですかぁ。なかなかいいところですね。」
 メインストリートでは商人たちがテントを張っただけの店を並べており、買い物客も少なくない。各所で商品運搬用の背負子を背負った行商人たちが、仕入れのためか旅支度をしている。目を別の方向に向ければ、馬車に荷物を載せている商人が傭兵と思しき武装した人々に囲まれている。状況からすると、ヌミディアの方に行くのだろう。規模からしても大商人のようだ。
「お父さん! これ、お弁当です! 日持ちするもの選びました!」
「ありがとう、それじゃあ、行って来るよ、やよい。」
 この商人は年の頃10歳くらいの娘を持つ身らしい。愛らしいウェーブがかったツインテールが揺れていた。父親は髭の生えた顔で娘に頬擦りしている。娘の方も痛がってはいたが、同時に喜んでもいるらしい。
「うっうー! お髭が痛いですー。」
「そうかそうか。やよいは可愛いなあ。」
 なおも頬擦りをしていたが、満足したのか馬車に乗り込んだ。娘もそれを見送っている。
「……私が街道を作れば、もっとこの人たちの行き来がしやすくなる……冷静に……がんばらなきゃいけないの……。」
 仮面の奥でボミルカルは、この気概に溢れる少女のお守りは絶対に大変だぞ、と思っていたが、それが彼には楽しくもあった。
「……。」
「それじゃあ、道路の基点予定地まで行きましょうか。」

 その基点は、タプソスの練兵所のすぐ近くだった。ここはブルスが率いる正規軍兵が集結している場所であり、建物の外にまで叫び声と汗臭さが溢れている。
「す、凄いですね……ここ。何ていうか、男の人の場所って感じです……。」
「……。」
「こういうの、ボミルカルさんも苦手なんですか?」
「…………?」
「あああああ、ごめんなさいごめんさない! 私、勝手なことを!」
 何故謝る、とボミルカルは苦笑しながらも、周囲の様子を窺う。ふと、練兵所の様子が気になった。一騒ぎが起きているようだ。
「う……隊長……もう……肩が動きません……。」
「貴様ら何をやっとるか! そんなことではファランクスなど組めんぞ!」
「無理です……。」
「それでも重装長槍兵(フェニキア歩兵)か! こんなことでは国防など担えぬぞ!」
 上官たちの叱咤に、配下の兵士達が口々に不平を零し始めた。
「俺たち、何なんですか……。」
「国防って言ったって、全然攻めて来ないじゃないですか。何のために我々がいるんです。」「それに、いざ戦となったら傭兵頼りですし。高給高給なんて言っても、結局これじゃあ……。」
「それに、俺たちを見る市民達の目が……もう耐えられないですよ! こんなことしてて、何の意味があるっていうんですか! 俺たちだって人間なんですよ!」
「毎日猛特訓しても、国の人間から穀潰し呼ばわりされてて……上官殿だって知ってるんでしょう!?」
「ぐ……。」
 彼らの上官も、さすがにこの言葉には俯かざるを得なかった。過去の敗北のせいで正規軍が主力から外され、傭兵主体に変遷したカルタゴ軍を、何とか変えようとしていたのがブルスであり、彼ら士官であったからだ。変えたくても変えられない、歯痒い現実に悔し涙を流すのは兵士達も士官たちも、そして彼らの司令官も同じだった。
「どうした?」
 見開かれた鋭い目が、崩れ去っている兵士達を射抜く。ブルスだった。どうやら様子がおかしいと感じ取ってやってきたらしい。
「あ、ブルス将軍。実は……その……。」
「わかっている。」
 ブルスは悔しそうに自分の下唇を噛んだ後、すぐに顔を引き締めて兵士達を見遣り、口を開いた。
「いいか貴様ら。貴様らの役目はそれぞれ決まっている。重装長槍兵(フェニキア歩兵)!」
 この将軍相手では、暴徒化しかけた兵士達も耳を傾けざるを得なかった。全員が姿勢を正して返事をする。
「はい!」
「貴様らの役目は平原の動く砦だ。貴様らが前進さえすれば、敵は蹴散らされ、逃げ惑う。わかったか!」
「はい!」
 はっきりとした返事を聞いたブルスは、視線をリビア槍兵に向けた。
「リビア槍兵!」
「はい!」
「貴様らの役目は味方の盾だ。重装長槍兵(フェニキア歩兵)の両翼を守り、弓兵を守り、その遥か後方の市民を守る。わかったか!」
「はい!」
 よし、と頷くとブルスは弓兵のいる方向に顔を向ける。
「弓兵!」
「はい!」
「貴様らの役目は雷雲だ。間断なく手も足も出ないところから敵に矢の雨を降らせ、士気を殺ぐ。わかったか!」
「はい!」
 少しずつ兵士達の顔に自信が戻っていくようだ。ブルスは最後に騎兵に視線を移した。
「騎兵!」
「はい!」
「貴様らの役目は軍団の目であり剣だ。戦う前には敵の様子を窺い、戦では先制攻撃を仕掛け、逃げ惑う敵を消す。わかったか!」
「はい!」
 これで暴れる心配はない、と見たブルスは続けて全員に向かって声を張り上げた。
「いいか貴様ら。貴様らが何のためにいるのかという問いへの答えは、国を守るためであり、国を豊かにするため、これだけだ。貴様らは攻めてこないと言っているようだが、いつ攻めてくるのかがわからないのが敵軍であり、いつ出没するのかがわからないのが賊なのだ。貴様らの言は、泥棒が侵入してから縄を綯い、魚が必要になってから船と釣竿を製作し、戦だからと傭兵を雇うようなものである。」
 誰も言葉を発するものはいない。静かな練兵所の中で、ブルスの声だけが響く。
「我らが存在することが重要なのだ。弱兵と軽んじられているだろうが、いずれ出番は来る。まずローマだ。野蛮な奴らは半島を統一さえすれば、金を持っていると見ればこちらに目を向けるだろう。遥か東方には強国エジプトがいる。神を名乗る愚かな王が、神の威光を示すためと攻めてくるやも知れん。隣国ヌミディアも信用できん。同盟を結んでいようが何をしようが他国は他国だ。必要とあらば攻撃も辞さないだろう。」
 ごくり、と誰かが息を呑んだ。ブルスは続ける。
「その時にでも思い知らせてやればいいのだ。弱兵と侮っていた我らが、いかに恐るべきものかを。俺は貴様らがどれだけ汗と血と涙を流してきたかを見ている。我らはこのタプソスの周囲の賊は、あと一息というところまで消し去った。最早姿を自ら見せようともせん。何故だ! それは我らの意気に当てられ、哀れなほどに怯えているからだ。戦場では敵なぞ賊に等しいものだ。賊に等しいものに我らが負けようはずがない! 貴様らの価値はいずれ見せ付けられる。その時まで耐え凌げ。ここまで耐えてきたのだ、これからも貴様らならやれる!」
 しんとした空気の中、ブルスは言う。
「今回のことは不問にする。それから……今日はもう休め。体を壊しては国防にならん。以上だ。」
 ブルスは兵士達に背を向け、練兵所の裏手に回った。兵士たちから姿を隠せたと見るや、彼の左手が練兵所の土壁を叩き、鈍い音が響く。
「おのれ……傭兵どもめ……。今に見ていろ、我らの価値を見せてくれる……!」

 確かにブルスの言うことは正しい。傭兵など、払いが悪ければすぐに掌を返すものだ。国防が泥縄ではいけないことも、ボミルカルとてわかっている。
「……。」
 しかし、と彼は思う。常備軍の増設は仕方ないにしても、今のカルタゴにその余裕があるのだろうか、と。


3 砂漠の暗雲


 タプソス周辺の街道整備は数日で終わった。まずはここまでだ。次は最大の目的である岩盤を調査しなければならない。その後は図面を引き、可能な限り直線になるようにしながら設計して、そこから算出された値から、必要な材料を揃えなければならない。
 まずは安定した場所の確保だ。このタプソス一帯は緑も残っており、岩盤も安定している。あまり労することはない。だが、ここから先が問題だ。この先の海岸沿いでは砂漠が近くまで張り出しており、これが流動性を生むため、安定した道を造れない。有機物が折り重なってできた土と違って、砂はほぼ鉱物のみだ。構成物質自体が柔軟性に欠けており、踏み固めることなどできるはずもない。
何かで砂と砂の間隔を埋めることに成功したとしても、地盤が安定していなければ固めた部分ごと流される。結局のところ、岩場の上を辿るか、雨季と乾季の差を利用した砂と粘土を固めた道にするか、でなければ岩場と岩場の間に目立たない程度の橋に近い構造物でも作るしかない。
「というわけで、皆さん。できるだけ安定した岩場を探してください。砂に埋もれている場合は、埋まっている深さを記録してくださいね。風なんかで変わっちゃいますけど、誤差を吟味してから設計しますから。」
 雪歩はメモ用具として一般的な、蝋を流した板と鉄筆を使わなかった。純粋な蝋の融点は60℃前後でしかなく、昼間の太陽が照りつける砂漠で落とそうものなら、メモした内容が全て消え去ってしまう。いくら値段が高いと嘆いても、パピルスを使うしかなかった。
「ええと、ここの深さは、と。それから最短の岩場は……あっち……。」
 別のパピルスを取り出して、書き込みを加えている。今度は地図らしい。どのルートが適切かを検討しているようだ。
「できるだけ短いルートに……直線に……。すみません、そっちじゃなくて、もうちょっと海岸寄りのところに岩場はありませんか? ……そうですか、わかりました。……だとするとこっちのルートは駄目かなぁ……そうだとすると……あの、あっちの方お願いしていいですか? ……ええ、タプソス側です。お願いします。」
 この暑い最中にもかかわらず、やけに精力的に活動している。以前のおどおどした感じが嘘のようだ。無論、彼女の危うさも見え隠れはしている。とはいえ、彼女の思いの強さには、ボミルカルとて感心させられる。
「……。」
 誰かのために何かをしたいという思いが彼女を支えているのだろう、と彼は思う。雪歩は自分の穴に閉じこもってきたと言う。そして、ボミルカルはこうも思う。それを帳消しにするくらいは働いているだろうに、と。白い肌に汗をいくつも浮かべながらもにこやかな笑顔を見せて働く彼女を見遣りながら、彼は周囲の様子を確認していた。

「そろそろお昼ですから、休憩にしましょうか。」
 太陽が中天に差し掛かっている。朝から続いた作業で皆、疲れ果てていた。やれやれという表情で、朝に設置しておいた簡易的なテントに潜り込んで打ち倒れている。その間も雪歩は馬上で何事かをメモしている。ボミルカルは流石に心配になって、彼女の傍らに寄る。
「……。」
「あ、すみません。でも、これをしておかないと……。」
「……。」
「テントでやれってことですか? でも…………はわ!?」
 ボミルカルは問答無用とばかりに馬から引き摺り下ろすように、彼女の背と膝裏を抱えて抱き上げた。そのまま馬を歩かせてまだ空いているテントに連行した。
「……。」
 職務熱心なのはいいが、自分が倒れたら全てが停止することくらい、わかってほしいものだと彼は思う。でなければ、ここまでしようとは思わない。
「はい……おとなしく休みます。すみません……。」
 テントに彼女を押し込むと、彼も雪歩の隣に座り込んだ。そのまま仮面を少しだけずらして革製の水筒に詰めたビールを口にする。ビールといってもアルコールは強くない。どちらかと言えば、麦から作った栄養飲料兼薬、というべきだろう。ミネラルも多く含んでいるため、重労働従事者はよく持ち歩いていた。同時に、布に染み込ませることで、打ち身の湿布薬としても使える。彼も戦士という意味なら重労働従事者だ。疲労と打ち身は絶えない。
「……。」
 同じようにして、こちらは水筒に詰めたお茶を飲んでいた雪歩が口を開いた。
「あの、いつも思うんですけど。」
「……?」
「どうして顔を見せようとしないんですか?」
「…………!」
 それだけは触れて欲しくなかった。ボミルカルは仮面の奥で表情を強張らせ、雪歩に背を向けて俯いてしまった。
「……。」
「あ、すみません……。」
 しばらくの間、テントの中に沈黙が降りたが、先に動いたのはボミルカルだった。彼は雪歩の方に向き直ると、持ち歩いている物入れから、あるものを引っ張り出した。そして、彼女にそれを手渡す。
「これ……。」
 イチジクの蜂蜜漬けだった。これもまた、疲れを癒すために携行している物である。保存が利く糖分補給食品はどうしても必要だったからだ。それを知っていた雪歩はボミルカルの仮面を見つめながら言葉を紡いだ。
「でも、これはボミルカルさんの……。」
「……。」
 ふるふると彼は顔を横に振って物入れの口を開けてみせる。その中には同じものがいくつも入っていた。
「あ……それじゃ、頂きます。」
 彼も蜂蜜漬けを抓んで口にする。しばらくの間、二人は同じ甘味を感じながらテントが作る影の中の風を楽しんでいた。

 休憩も終わり、再び作業開始だ。雪歩は午前中以上に張り切ってパピルスに書き込みを続けている。砂漠の砂が風に乗って舞い、彼女のヘルメットを叩いたが、まったく気にしていないようだ。
「……。」
 ぎらぎらと殴りつけるような暑さが続く。時折作業員達が汗を拭いている横で、馬上で疲れた顔をしたボミルカルの随伴騎兵が手綱を握っている。別の場所では何かの測量のためか、三脚台に据えられた器具の隙間から反対側を覗き込んでいる姿もある。護衛の仕事は、言ってみれば自分たちの仕事がないようにするのが仕事のようなものだ。暇だからと嘆いてはいけない。その時だった。
「……?」
 ボミルカルは急に神経を尖らせた。風が強まっていくのはいい。だが、砂漠の方角から風を切るような音がする。砂漠ほど障害物の少ない場所はない。岩が突き出していることはあっても、この辺りにはそれすらない。何か、いや、誰かがいる。 
その次の瞬間、砂丘の陰から拳大の石がいくつか飛来した。その内の一つが彼の乗る馬の足元に落下し、風のせいもあって大きな砂煙を上げる。続けて、投げ槍を携えた騎兵が、剣を携えた戦士が姿を現した。急なことで調査員たちは驚き、数人がタプソスの方向を目指して逃げた。おそらくはタプソス常駐軍に告げるためだろう。残る面々は近くの随伴騎兵の下に駆け寄った。この状況には雪歩も慌てる。
「えっ? えっ!?」
 ボミルカルは、彼らの正体がすぐにわかった。ブルスに蹴散らされた盗賊団の生き残りだ。おそらくは、蹴散らされて意気消沈しているところで、調査に訪れた雪歩達を襲いやすい相手と見たのだろう。彼女の行動を見ていれば、貴族階級に属することくらいはわかったはずだ。身代金目的なのかもしれない。だとするなら、雪歩を攫おうとするかもしれない。彼は雪歩の近くに馬を寄せ、守りを固める。
「……!」
 攫おうとすることは無論許せないが、同時にチャンスでもある。生け捕りを狙うなら、殺そうとするよりも攻撃が消極的になる。そこを狙って攻撃を仕掛ければよい。ボミルカルは随伴騎兵に手で指示を送った。まずは投石兵から狙え、と。
 投石は鎧兜を身につけた人間にとって、非常に大きな脅威である。何故なら、剣による斬撃や槍による刺突は鎧で防げても、石や鈍器による衝撃は殺せないからだ。何しろあのペルシア戦争当時、ロードス島の軽装投石兵がペルシア側の青銅兜を被った弓兵を圧倒したほどだ。スリングと呼ばれる縄を編んで作った椀付き紐に石を載せ、振り回して遠心力を加算させれば骨折どころではすまない。しかも打撲傷は裂傷より質が悪い。投石といえども立派な武器だ。
 随伴騎兵たちが砂丘の向こうの投石兵を攻撃し始めたと見るや、一人の騎馬投擲兵がボミルカルの方向に突進してくる。お互いの顔が視認できる距離に達したとき、彼の手から投げ槍が放たれた。
「……!」
 しかし、ボミルカルは何ともないように手にした剣でそれを叩き落した。同時に、馬を走らせて距離を詰める。
「うっ……うわああああああ!」
 まさか槍を落とされるなどとは思わなかった。あまりのことで気が動転して身動きが取れない騎馬投擲兵を一刀の下に切り伏せた。だが、続けて騎兵たちが仕留め損ねた投石兵の石が飛来する。
「……。」
 護衛任務を忘れたわけではない。すぐさま雪歩の下に戻り剣を収めて、鞍にかけた短めの騎兵槍に持ち替えた。ボミルカルは彼女を見遣り、仮面の奥から気遣わしげな視線を送る。雪歩もそれがわかったらしい。
「……。」
「えっと……大丈夫……です。」
 蒼褪めた顔では説得力がないが、この気丈さに感謝するしかない。彼女は内政官である前に、一人の女性であり、同時に非軍人である。このような命の遣り取りに慣れているわけがない。そのまま気絶していた方が楽なのかもしれないが、少なくとも自分が心配することはない。自力で逃げてくれる、というメリットもある。
「……!」
 だが、そんなことを考えている暇はない。再び姿を現した投石兵が、スリングを振り回し始めた。この距離では雪歩に当たるかもしれない。
「…………!」
 ボミルカルは再び馬を走らせ、一気に間合いを詰める。投石兵は狙いを定めて彼に向けて石を放った。至近距離だった。逃げられない。
「………………!」
 石がボミルカルの仮面を殴打した。衝撃が脳髄から眼球から鼓膜から、顔面組織を震わせて彼の意識を彼の岸に追いやりかけた。だが、ボミルカルの鉄の意志が現実世界に魂を引き戻す。何としても守らねばならない。あの、血みどろの惨劇に目を背けずに耐えている少女を。
「……!」
 仰け反りかけた体勢を立て直し、擦れ違いざまに投石兵の肩を槍で切りつけた。そのまま馬首を返し、肩に意識を向けた投石兵の背後から心臓を一突きにする。打ち倒れる姿を確認する間もなく、彼は雪歩の隣を駆け抜け、背後に回り込んでいたらしい剣歩兵に向かって行く。
「この不気味な仮面野郎、死ねや!」
 その罵倒を吐き出した本人も、それがボミルカルの耳に入る前に槍玉に挙げられていた。しかし、彼はそのまま雪歩の側に戻らず、周囲を窺った。人間の足で、雪歩の背後にまで回りこむのは難しい。地質調査をしているくらいだから、洞窟の類はすぐにわかる。周囲を警戒し続けていたのだから、うまくタイミングを合わせなければ回りこんでの襲撃は無理だ。
 つまり、騎兵か何かで、たった今回り込んだことになる。それを彼は警戒していた。だから、次の攻撃も彼の想定範囲内だった。
「……。」
 再び砂丘の向こう側から槍が投げ込まれた。今度は叩き落さず、馬に前進させて躱す。騎馬投擲兵を求めて馬を走らせてはみたが、砂を蹴立てて疾走する姿を確認したときには、もう追いつけない。彼は馬首をめぐらせて元来た道を下って行く。
 そこを狙って騎馬投擲兵が再び砂丘を登って槍を構えた、その時だった。戻ったはずのボミルカルが再び姿を現していた。離れた振りをしておびき寄せていたのだ。ボミルカルは下り坂で加速がついており、騎馬投擲兵は斜面のせいで方向転換が間に合わない。一瞬のことでボミルカルの槍が騎馬投擲兵の喉笛を貫いていた。
「……。」
 一体何人いるのかと思ったが、いつ攻撃が終わるとも知れない。早いうちに雪歩の側に戻らねば、と斜面を大回りして方向転換し、雪歩の下に戻る。そこに、幾人かの随伴騎兵が戻ってきた。
「すみません、何騎か仕留め損ねました。おそらくは回り込んでくるかと。」
「……。」
「はい、周辺確認します。将軍、お願いします!」
 仕留め損ねた騎兵が回りこんでいた場合、そして、それぞれが多角攻撃を仕掛けた場合、どうすれば守りきれるだろうかとボミルカルは頭をフル回転させる。石のダメージがまだ脳を揺さぶっているが、そんなことでへこたれているわけにはいかない。
 だが、考えがまとまらない内に恐れていた多角攻撃が来た。どうやら長盾騎兵らしい。一般的な円盾騎兵よりは機動性に劣るが、防御では勝っている。あの盾を構えて突進でもされれば危険すぎる。
「……。」
 右、左、そして左斜め前方。それぞれ距離が違う。となると、同時には攻撃は来ない。ならば、各個撃破できる。彼はその場から身動きもせずに右手の騎兵槍を右方向に向けて投げつけた。その騎兵は目を狙われて已む無く盾を構えた。だが、これが視界を塞ぐ結果となった。あっという間に接近され、剣で薙ぎ払われて、砂地に血を撒き散らしながら横転する。
「…………!」
 ここからが問題だ。彼は右回りに馬をUターンさせ、ぐるりと雪歩の背後に回る。長盾騎兵の二人はボミルカルが離れたと見るや、雪歩を生け捕りにしようと槍を鞍にかけ、右手を伸ばしていた。好機と見たボミルカルは心の中で謝りつつ、あろうことか右手の肘で雪歩を馬上から叩き落した。
「あうっ!」
駆け寄って謝りたいという思いを押し殺し、ボミルカルは攫う対象を見失って一瞬途惑った騎兵に対して、続けざまに攻撃を仕掛ける。左側にいた騎兵を右に見ながら擦れ違いざまに首を跳ね飛ばした。右側に回れば盾は無用の長物と化す。運動性を殺す結果にしかならない。
「何て奴だ、護衛対象を突き飛ばすなんぞ……。」
 最後の一騎に向けてボミルカルは馬首を返して剣を構え、挑む。随伴騎兵達はこの男の仲間の追討中だ。自分だけが雪歩を守る最後の砦である。心理的条件はほぼ互角だ。後は技量と思いと、そして運だけが頼りだった。槍と剣がぶつかり合い、その度に火花が散る。
「……。」
 残った長盾騎兵はボミルカルの左側に回ろうとするが、そうはさせまいと彼も馬の向きを変えて左側を取らせないようにする。その結果、この騎兵の周りを時計回りに回ってしまっていた。このままでは馬が疲労して対応できなくなる、と思っていたその時、彼の愛馬が砂漠の砂地に足を取られて、悲鳴の嘶きを上げながら横転し、ボミルカルも落馬して放り出された。
「……!」
「終わりだ、この間抜けが!」
 長盾騎兵が騎兵槍を構えて突進しようとしたその刹那、何かが彼の視界に割り込んだ。別の騎兵が落とした盾を、雪歩が両手で構えて鋭い槍の穂先からボミルカルを守ったのだ。だが、騎兵の突撃力が加算されていたこの攻撃に、彼女は耐えられなかった。一撃で盾が弾かれて、刺突こそ逃れたものの雪歩も砂まみれになって砂地に転がった。だが、効果は大きかった。長盾騎兵もバランスを崩し、彼らから少し離れたところで落馬した。そのまま馬は何処かへ駆け去っていく。
ボミルカルは、何て無茶をする、という思いで雪歩を見遣った。だが、彼女はそれに堪えた様子はない。
「…………!」
「だって……ボミルカルさん……助けてくれましたから……。私だって助けたかったんです……。」
 肘で払い落としたことが気にかかっていたが、雪歩はそれが自分を守るためとわかってくれた。それが彼には嬉しかった。だが、まだ戦いは終わっていない。先ほどの騎兵が槍を構えて徒歩で戻ってきた。
「このアマ……もういい、まとめてぶっ殺してや……ぶふおっ!?」
 ボミルカルが自らを守ってくれた盾を投げ付けたのだった。仰け反ったこの騎兵に一気に詰め寄り、剣を肩口から袈裟懸けに払って殺害する。彼は周囲の様子を窺ったが、最早敵の気配はない。
「あ、大丈夫ですか?」
 雪歩が駆け寄ってきた。護衛対象に心配されるとはあべこべだな、と思いながら、大きく深呼吸をしようとしたその時、彼の顔から金色のものが零れた。それはぽとりと砂地の上に落ち、彼が何としても隠したかったものを露にしていた。
「ボ……ボミルカルさん……仮面が……それに、その顔って……。」
 ボミルカルがどうしても顔を見せようとしなかった答えが、そこにあった。最初は雪歩も、石を顔面に受けた傷で「そう」見えているのかと思った。だが、そうではなかった。元は目付きが鋭いだけの青年の顔なのだろうが、その顔に赤と紫と茶色が綯い交ぜになったような痣が、いくつも浮かんでいた。癩病だ。生きながら皮膚をはじめとする生体組織が侵されていく病気で、しかも接触感染する。元が整った顔立ちだけに、その無残さは一際だった。
「…………!」
 ボミルカルは砂から身を起こしたばかりの愛馬に飛び乗って、どこへともなく馬を走らせていた。彼の仮面を拾った雪歩も、自分の馬に飛び乗って彼の後を追う。随伴騎兵も雪歩の付添い人も、慌てて二人の後を追おうとしたが、タイミングが遅れた。すぐに折からの風が強まったために起こった砂嵐のせいで、二人の姿を確認できなくなった。馬の足跡でさえも、この嵐で掻き消されていく。
 この季節にはないはずの暗雲が、砂漠を覆い始めていた。


4 淡雪


 雪歩は砂嵐で前が見えなくなりそうになっても、懸命にボミルカルの後を追った。ふと、持ってきた彼の金色の仮面の裏を見てみた。仮面の口にあたる部分に、木に藁を巻きつけたような突起物が据え付けられていた。
「もしかして、これのせいで……。」
 仮面を顔面に固定したければ、紐状または帯状の物を巻きつけるか、でなければマウスピースを仮面裏につけて、それを噛み続けるほかない。ボミルカルの仮面はどうやら、このマウスピースのものだったらしい。うっかり深呼吸をしようとして、口が緩んだために仮面が落ちたのだろう。
一瞬見えた彼の素顔では、耳の辺りまで痣が広がっていた。これでは紐を使えば肉に食い込んで、下手をすれば皮膚を抉り取ってしまいかねない。帯状のものにしても、痣から滲んでいる膿が染み込んでしまい、使い物にならなくなるどころか、貼り付いて剥がれなくなる可能性もある。それでこの方法を選択したのだろう。
 だが、こうなると唸ることはできても喋ることなどできない。そして、人というものはどんなことでも使い続けなければ鈍っていくのが普通であり、それは言語でも同じだ。結果的に、仮面をつけようが外そうが、喋ることを苦手にしてしまっていた。同時に、この仮面は彼の心を守る盾へとも変貌していた。仮面に起因しているとはいえ、喋ることも、顔を見せることも恐ろしい。そのため、過剰なほどに仮面に頼ることになった。
「ボミルカルさん……!」
 優しくはあるが、感情に正直なボミルカルである以上、ショックを受けたときの脆さは人一倍だった。雪歩はボミルカルが、感情に押し潰されはしないか、ただそれだけが心配だった。

 ボミルカルは泣いていた。痣だらけの頬を、暖かな雫がこぼれていく。だが、それが地面に落ちる前に舞い踊る砂が付着して、顔が砂だらけになった。そこで初めて、何も考えずに馬を走らせてしまっていたことに気がついた。少し、頭を冷やす必要がありそうだ。
「……。」
 近くに森があった。カルタゴ軍が使用する象がアフリカ森林象なのだから、この周辺にも森くらいはある。ただし、この辺りだと規模はガリアどころかイタリア半島の森よりも小規模だ。とはいえ、砂から身を守ることはできそうだ。ボミルカルは馬首を森に向けて走らせた。
「……!」
 だが、森には先客がいた。狼だ。飢えた唸り声を上げながら、群を成してボミルカルに襲いかかる。彼は剣を抜き放ち、身を乗り出して一匹の狼を切り払った。同時に馬に前進させて半包囲を突破し、切り返して掬い上げるように剣を振るって二匹目を血祭りに上げる。そのまま続けて右手に回った狼の脳天に叩きつけて屠り、また馬を走らせて囲みを抜ける。彼の瞳は何かに取り憑かれているようにすら見えた。
「…………!」

 気付いたときには狼の姿はなかった。近くには無残な狼の死体が多数転がっている。既に日が傾いていたのが、遂には沈んでいた。残照が僅かばかりにある程度でしかない。最早頭を冷やすどころの話ではなかった。このまま砂漠に戻れば頭どころか全身が冷えて凍え死ぬ。森で枯れ枝でも集めて焚き火をしながら夜を明かすほかない。
「……。」
 ボミルカルは近くの木に馬を繋ぐと、枯れた枝と乾燥しきった藁のような草を集め、火を点けた。赤々とした輝きが、周囲の木々を照らして温かみをボミルカルに与え始める。戦いに昂っていた精神までもが掠れていくようだ。
「…………。」
 あの心優しい少女にだけは、自分の素顔を知られたくなかった。接触感染するこの病だ。近づきたくもなくなるはずである。手にまでは流石に及んではいなかったが、病を移されたと思うかもしれない。
「……!」
 段々と、彼は自分の顔を覆う痣が憎らしくなってきた。いっそのこと、焚き火の火でも押し付ければ少しは病も効力を失うだろうか。そんなことを考えながら、ボミルカルは焚き火の中から燃え盛る枝を取り出し、その火を見つめた。そのことばかり考えていたのか、後ろで別の馬の嘶きがしたことにも気付かなかった。
「駄目っ!」
 不意に、横から火の着いた枝を奪われた。奪い取ったのは、嫌われただろうと思っていた人物、その人だった。結局雪歩はボミルカルの姿を見失った後、行きそうな場所を探して回った。彼女は森が近くにあるのを思い出し、その方向に馬を走らせたところ、焚き火の火が見えたためにやってきた、というわけだ。ボミルカルは驚いた顔をその人物の方向に向け、すぐに視線を伏せた。今更、合わす顔がない。
「……。」
「あの……私……。」
 今のボミルカルには言葉が通じそうにない、と見た雪歩は繋いだ馬の鞍にかけた物入れを取り出し、陶器の瓶と亜麻布を取り出した。
「その、私にはボミルカルさんの気持ちがわからないです。そんな病気になったことないですから。でも、それがボミルカルさんを苦しめてることはわかります。だから……。」
 彼女は亜麻布に陶器の瓶の中身を振りかけて染み込ませ、そっとボミルカルの顔を拭いた。特有の臭いを持つそれは彼の顔に染み込み、同時にボミルカルに軽い沁みを与えた。
「……!」
「あ、ごめんなさい! これ、お酒を暖めて出てくるものを、水につけた金属パイプで通したものです。消毒に使えるらしいので……。その病気の膿とか……その……。」
 ボミルカルは雪歩の為すがままにされていた。どうして、自分を追ってきたのだろう。嫌がっても不思議ではないのに、と。
「私、思うんです。ボミルカルさんの仮面は、ボミルカルさんの優しさなんだって。うっかり誰かに接触して、自分の悲しみを広げないようにって。だから、私はボミルカルさんが優しくて、強い人だって思います。だから……。」
 自分はそんな強い人間ではない。ここにいるのは自分の弱さのせいなのに、何故そんなことを言う。ボミルカルの目はそう訴えていた。
「……。」
 消毒が終わったのか、彼女はボミルカルの左隣に座って焚き火の火を見つめた。
「隠し続けるのって、勇気がいると思います。隠し事って、疲れますから。それに、知られたときのショックって、最初から知られている時よりずっと大きいですから。仕方ないです。ボミルカルさんだって。でも、もう大丈夫です。私はボミルカルさんが辛い思いをしてきたこと、わかりましたから。」
 何故、雪歩という少女はこうなのだろう。ボミルカルは不思議で仕方なかった。彼女は自分以外にも、庶民もどんな人々にも、優しく対等に接しようと努力している。普通、そんな完璧な人間などいるわけがないのに、と。
「私、カルタゴが好きなんです。争いとかありますけど、でも、太陽に輝く街並みとか、そこに住んでる人の表情とか、風に吹かれて海を進む船とか、そういうのが全部好きなんです。だから、私の好きなカルタゴを守ろうとしてる、ボミルカルさんだって、皆、皆好きですから。だから……その……。」
 彼女は以前に言っていた。内政官になったときに内向的な自分を変えたいと決めた、と。そして、彼女はカルタゴそのものを愛するようになった。ボミルカルも、彼女にとってはカルタゴの一部、ということだろう。何というスケールの大きいことか。彼は思わず、忘れかけていた言葉を、その口から紡ぎ出した。
「…………私は…………私は…………。」
「えっ……!?」
 そのままボミルカルは軽く首を横に振ると、再び黙り込んでしまった。雪歩は少しだけ顔を綻ばせると、物入れから乾燥した薄焼きのパンを取り出した。
「あの……これを。お腹空いてません?」
 そういえば、賊と狼相手の戦いで疲れていたのだった。ボミルカルは少し微笑んで受け取ると、自分の物入れからイチジクの蜂蜜漬けを取り出して、雪歩に渡した。
「……。」
「ありがとうございます。それじゃ……頂きます。」
 二人は焚き火を前にパンと蜂蜜漬けを口にした。ボミルカルには、昼に食べたイチジクのはずなのに、何故か今の方が美味しいと感じられた。そのまま二人は焚き火の番をしながら夜を明かすことにした。

 翌日、寝ずに過ごした二人は焚き火を始末しながら、木に繋いだ馬の縄を解き、出発の準備を整え始めた。その時だった。潮騒のようなざわめきとともに、何かが降り始めた。
「……!」
「これって……雪?」
 そう思ったのも無理はなかった。白い粉状のものが、降り注いでいる。その勢いは雪というよりは雨に近かった。ボミルカルは手を伸ばして雪のようなものに触れてみた。ざらざらした手触りだ。これは、砂漠の砂だ。だが、カルタゴ周辺の砂は玄武岩質が多く含まれていることもあって、全体的に黒い。たまたま昨日の砂嵐によって、白い砂だけがここに運ばれてきたのだろう。しかも、この砂は風によって角という角が削られて、丸い形をしている。一目見ただけではわからないのは当然だ。
「そうですよね、砂漠で雪なんて降るわけないです。おかしいですよね。でも、綺麗です。」
 ボミルカルは一度イベリア遠征時に、本物の雪を目にしてきた。白く輝いて冷たいのは勿論だったが、あの美しさはそれだけではないようだった。特に、淡雪が美しかった。触れれば融けて消えていく、あの儚さが。この砂には、あの淡雪のような儚さがなく、ボミルカルには美しいとは思えなかった。
本物の雪と比較できるのは、隣にいる少女のほうではないかと彼は思う。雪歩にも、淡雪に似たようなものをボミルカルは見たような気がした。しかし、彼は顔を横に振る。
「……。」
 彼女を、散らせはしない。カルタゴのためにも、多くの人々のためにも。それが仮に自然の摂理に逆らうようなものであったとしても、自分がやらねばならない。彼はそう思った。
「あ、ボミルカルさん、これ。ごめんなさい……渡すの忘れてました。」
 雪歩は金色に輝く仮面を差し出した。自分の顔を隠すために使っているものだ。雪歩はこれを、優しさと表現した。自分では弱さだと思っていたものを、だ。彼は思う。いつか必ず、本当に優しさになるようにしてみせる、と。彼は微笑を見せると、雪歩の優しさが籠ったように感じられる仮面を被って、まだ砂が降り頻る空を見上げた。その目は、遥か遠くを見つめていた。

その後森から出た二人を捜索隊が発見し、作業は一時中断という形でカルタゴに戻った。カルタゴ議会堂執務室で待っていたハスドルバルは困ったように、だが少々ほっとしたようにボミルカルに告げた。
「ボミルカル、お前の気持ちもわかるがの。職務放棄はいかんと、わしは思うぞ。悪いがしばらく謹慎しておいてくれい。いちおー、神殿にの。大した期間ではないから、悪いようにはせん。」
 当然の処置だ。雪歩も似たり寄ったりだが、こちらは自宅謹慎だった。二人は顔を見合わせ、苦笑した。雪歩を自宅まで送った後、随伴騎兵たちに謝罪しながら神殿に向かう。尤も、謝罪しても随伴騎兵たちからは「仕方ないです。見られたくないもの見られたら、誰だってパニックを起こします。」という応えが返ってきたが。
「……。」
 バアルの神殿の中は暗くて静かだった。この謹慎は、神と向かい合って反省しろ、というよりは、静かなところで頭を冷やせ、という意味合いの方が強いだろう。話が通っていたのか、神官たちに案内され、謹慎期間に住まう部屋に通された。
「……。」
「はい、身の回りの世話は我々がさせてもらいます。」
 しばらくの間、神官たちが入れ替わり立ち代り、食事や何やらと世話をしてくれた。一人の神官が彼と世間話を始めた。その中で、その神官はこのようなことを漏らした。
「ボミルカル将軍、あなたが祖国に命を捧げていることは承知しております。ですから、このようなことを申し上げるのは憚れるのですが、お聞きください。」
という前口上を口にした上で続けた。
「祖国の交易船は世界中を廻り、祖国の軍隊は無敵そのもの。祖国の繁栄は絶頂を迎えています。ですが……あとは、堕ちるのみ。我らの祖国とて、いつかは火に包まれ、土に還る日が来るやも知れません。」
 ボミルカルは軽く頷いた。確かにそうだろう。いつかは下降に向かう日も来る。繁栄し続けることなどありえない。だが。
「……。」
 座っていた椅子から立ち上がり、彼は仮面を取ってその神官に笑顔を見せた。
 たとえ堕ちたとしても、再生する力はまだあるはずだ。あの、直向きなカルタゴを愛する少女さえいれば。彼女を守り抜けばカルタゴは守られるはずだ。ボミルカルはそう信じていた。


エピローグ


 眼の前に迫り来る、青い軍勢の勢いはなかなか弱まらない。ローマ軍の軽装主力兵は若い兵士が主体だけに、体力も十分らしい。さらには、彼らの背後から散兵がピラを投げ付けてくる。こちらの主力のリビア槍兵たちは訓練不足だ。投擲槍を防ぎきれずに貫かれて倒れて行く姿がそこここで見られる。
「将軍、状況は芳しくありませんが、まだ持ちこたえられます。ご命令を。」
 彼は仮面を返してもらったときのことを思い返していた。あの時自分は、顔を隠す弱さを優しさに変えようと誓った。だが、それはまだ達成できていないように思える。達成するまで、カルタゴを滅ぼされるわけにはいかない。
「将軍、危ない!」
 ボミルカルは眼前に迫ったピラを、剣で叩き落した。続けて、どう回りこんだのか、突進してきた軽装主力兵数人を、まるで狼を蹴散らすように斬り殺した。いや、まさしく彼らは狼だ。狼の旗を掲げ、飢えた獣のようにカルタゴを貪ろうとする、野獣の群れだ。
「……!」
 既に雪歩は捨て身の覚悟で国を守ろうとした。次は自分の番だ。彼女にだけ戦わせて、自分が戦わないわけにはいかない。守るために血を浴びることこそが、そして、他の誰にも血を浴びせることがないようにするのが、自分の仕事である。
「…………。」
 何としても、カルタゴと雪歩を守り抜かねばならない。ボミルカルはそう思った。
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No title

>シークレットさん
わかりました!

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